新井宿まちづくりブログにて連載中の「お女郎縁起考」を転載していきます。最新話はブログで、それまでの話はここでご覧ください。月イチで更新していきます。では。
お女郎縁起考
神根、安行、鳩ケ谷にはいろんな伝承、伝説があります。仏教説話的なものや現実離れした話もありますが、中にはこれは事実に基づいた話ではないか?という伝承・伝説があります。昔、人々に強く記憶される事件や事故があった。それが語り継がれるうちに脚色されていったのではないかと思えます。
中でもお女郎仏は実際にあった事件でありながら、主人公の女郎について当時も今も全く分からないという不思議な話です。寛政2年(1790年)石神の土手山という林の中で若い娘が行倒れていた。村人の介抱にもかかわらず娘は5日後に息を引き取った。うわごとを言って村人の問いかけにも応えられず、身元を示すものは一切なく、しかし、あまりにも美しい容姿から「女郎」ではないか?とか、大奥女中ではないか?はてはとある大名家の御落胤ではないか?などと、さまざま噂されました。
はたしてこのお女郎、何者だったのか?この連載ではお女郎の正体、どこから来てどこに行こうとしたのか?なぜここで行倒れてしまったのか?これを推測し仮説を立てて参ります。ほとんど何の手がかりもないので、すべてが僕の想像にすぎないのですが、巷間伝わる「お女郎様」ではなく、そこに生きた一人の娘として血肉を通わせようと思います。その時代の空気、親兄弟、生活した場所、そして感じたことなどを再現してみたいです。
じつは、このお女郎のことを小説をしてみようと思っています。なかなか忙しくて筆が進みませんが、その執筆の中で思ったことをこの連載で書いていきます。その小説の題が「お女郎縁起」なので、「お女郎縁起考」というわけです。では、今後をご期待ください。
写真はそのお女郎の石神「妙延寺」です。
お女郎仏の由来
お女郎の由来についておさらいしてみます。
妙延寺の冊子には女郎仏の由来が載っています。
寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり、石井家は当時村長を勤めていたので、翌朝官林(土手山)の見回りに行った処、山の中から若い女のすすり泣く声が聞えてくるので行って見ると、十八,九歳くらいの気品の高い女性が病に倒れて苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが病重く言葉も絶え絶え、手掛かりになる所持品もなく、どこの者ともわからず、窮して隣家の杉山さんと相談の結果、庚申塚に仮小屋をつくり、そこに運んで医師を招き治療を受け手厚く看護したが、薬石効なく遂に同月六日午前十時不帰の客となってしまった。やむを得ず近隣の者と相図り庚申塚に懇ろに弔った。
以上は石井栄松氏の手記によるもので他にもその女人は由緒ある身分の方ではないだろうかとか、越後新発田藩主の落胤で故あって江戸から国許に帰る途中不慮の災厄にあったのだろうと穿ったような別説も伝わっているがいずれも立証する何ものは残っていない。
女郎仏とはその女性があまりにも美しく可憐な乙女であり、身分を明かさなかったのでもしや女郎ではなかったかとの憶測から生じたものではないかと思われる。
と、このように日時、場所、経過が明確に記録されています。しかしながら当時も今もこのお女郎が何者で、どこからどこに行こうとしたのかという事情に関しては一切不明になっています。真実にたどり着くはずもありませんが、お女郎の人物像、また、事情について推理していきたいと思います。まず、いくつか疑問点整理してみます。写真はお女郎を葬った庚申塚。
お女郎の人物像
お女郎の謎を整理すると。
1、 お女郎が何者なのか?
2、 どこから来てどこに行こうとしたのか?
3、 どうして行倒れになったのか?
の3つになります。
まず何よりお女郎が何者なのか?というのが最大の疑問です。わかっているのは18,9歳ぐらいの美しい娘というだけであって身分やどこの生まれかもわからない。当時は服装や髪形、言葉づかいである程度その人の出自がわかりました。たとえば髷は武士と町人百姓ではっきり違いますし、服装も身分や年齢で違います。若い女性の場合髪は武家なら気品のある高島田、町人は結綿など。着物は武家なら絹や紬が使え、町人は木綿、百姓だと麻か木綿しか許されなかった。さらに未婚の場合振袖を着ていて既婚女性は着なかった。など。
このように身なりや髪形である程度出自の見当がつきます。また、言葉づかいにも武家と商人と百姓、上流階級か庶民かでも違っていました。加えてお国訛りもあります。しかしお女郎ではその辺の記述がありません。発見時の服装や髪形などからは判別できなかったものと思われます。これらのことから少なくとも上級武家の娘には見えなかったのではないでしょうか?このお女郎が越後新発田藩藩主の御落胤という巷説は想像しにくく、ごくありふれた身なりの女性像が浮かび上がってきます。しかし、見た人に印象に残るほど美しく品のある顔立ちだったために「女郎ではないか?」「上臈:じょうろう(身分の高い女中)ではないか?」などの憶測を呼ぶことになったのだと思います。写真は日曜ドラマ仁の旗本の娘橘咲役の綾瀬はるか。
赤山役所の検分
このように何の手がかりもないお女郎。しかし、石神村は赤山領(関東郡代伊奈氏の領地)。領民が赤山役所と呼んだ陣屋のお膝元です。領内、支配地での行倒れ者、変死者の調査は代官の仕事ですので、当然赤山役所の役人が検分に来ているはずです。
役人は死者の身体的特徴、身なり、発見時の状況などを書きまとめ、これを近在の村々に御触れ出します。これらのことは伝説にはないのですが、当然このような手続きがとられたことでしょう。しかし該当者はなかった。当時の役人がこういう案件にどこまで捜査するのかわかりませんが、江戸時代は百姓や町人など庶民への支配は連帯責任や相互監視などの法律で徹底的に行われていたので、領民・支配民のことはかなり細かく把握していました。江戸時代に犯罪率が低かったのはこの支配制度によるのです。しかし、一歩他領や寺社地に足を踏み入れるとその捜査権が及びません。この天明・寛政のころは大飢饉や打ち壊しなど不穏な社会情勢になり関東各地で盗賊団が跋扈するなど大荒れの時代でした。役人が犯罪者を追い回しても他領に逃げ込まれてしまい検挙率が大幅に低下しました。これがのちに八州回りと呼ばれる関東取締出役という私領、公領にとらわれない捜査権を持つ機関の設立につながっていきます。写真は赤山城跡碑
越後新発田藩(えちごしばたはん)
話はそれましたが、伊奈家の調べで該当者なしとなれば他の大名・旗本領あるいは寺社領。そして江戸町奉行の管轄下の人間になります。無宿人は町奉行も把握していませんがお女郎はあたらないでしょう。赤山役所、また、当時の役人がこういう事案で他の役所と連携して捜査したかはわかりません。代官所も町奉行所も激務なので普通に考えればやらないでしょう。特に当時の伊奈家は改易の原因になった家中の内紛で機能不全に陥っていたので、検分に来て終りだったということも十分考えられます。関東の治安が悪化した原因は天明の大飢饉という天災が大きいですが、田沼意次と松平定信の権力争いによる権力の空白と伊奈家の混乱により一時的に治安能力が低下したことも大きかったのではないでしょうか。
ただ、ここで気になるのが先程の「越後新発田藩藩主の御落胤」という噂。これが何処から出てきたのだろうか?発見者の名主石井伝右衛門はじめ村人、近在の村々も含めて、さらに後の創作だとしても到底百姓の発想ではありません。御武家の娘さんという想像は出来ても越後の新発田藩、しかも藩主の落し種などというのは百姓の頭の外にあるというものです。僕はこの噂の出どころが赤山役所ではないかと思っています。当時新発田藩では「清涼院様一件」という藩を揺るがす騒動がありました。清涼院という藩主の祖母が寵臣を使って藩政を壟断し、重臣たちとの対立で危機的状況に陥っており、ついには老中松平信明が仲裁に入り清涼院の寵臣相葉七右衛門を罷免して決着しました。これが前年寛政元年(1789年)4月の事です。下は新発田藩溝口家の家紋。
このようなお家騒動が伊奈家の耳に入り、家臣手代の誰かが、あるいはそんなこと(御落胤)があるやも知れぬ。と地元民に漏らしたのではないか?と思います。じつは新発田藩の下屋敷は本所菊川町にあり、関東郡代管理の本所牢屋敷がすぐそばにありました。元々本所深川は伊奈家の庭のようなところなので、そういう極秘情報も耳に入ったかもしれません。また、これが有力なのですが、伊奈家で代々家老や重職を務めた大河内一族は清涼院の実家である大河内松平家とは遠い親戚にあたります。また、大河内宗家の秀綱、久綱はともに初代伊奈忠次の配下でした。(秀綱は久綱、正綱の父。正綱は大河内松平家の初代。久綱の次男信綱は伯父の正綱の養子になり松平伊豆守信綱と名乗り川越藩主となり老中を勤めた。清涼院はこの信綱の系になる。)このように伊奈家重臣の大河内家、また伊奈家と清涼院の実家とは近い関係にあったので、この騒動の事も聞き及んでいたかも知れません。伊奈家自体が同時期に深刻なお家騒動の渦中にいたので、このなりゆきに関心が強かったという想像もできます。実際に新発田藩藩主溝口直候に18,9歳の御落胤あったとは年齢から考えにくく、たまたま伊奈家家中で話題になっていた新発田藩の騒動の事が赤山領下の百姓に伝わりそれがお女郎と結びついたのではないかと考えます。まあ考えすぎだと思いますが。いずれにしても新発田藩の件は当時もその後も村人たちからの発想とは考えにくく、赤山役所の人たちが関っているように思うのです。彼らは実際に町奉行や新発田藩などに問い合わせたのかもしれませんね。
同行者
しかしそれでも娘を殺しておいた方がより身の安全をはかられたのではないでしょうか?もしかしたら殺さなかったではなく、殺せなかったかもしれません。そこで先程のこの同行者が何者であるかに戻りますが、娘が女郎で、情夫の手引きで遊郭を足抜けしたとしたら、娘がこのような体になっても娘のもとから離れることはないでしょう。足抜けが失敗すれば手引きした者は確実に殺されるので、愛する女郎と命がけで脱走して、それがこういう結果になればその男も生きてはいないでしょう。少なくともこういう扱いはしない。だから娘が女郎で、足抜けしてきたというのはないと思います。次に女を売り買いする女衒ですが、元々が悪徳業者なので、商品である女が旅の途中に瀕死になれば、商品としての価値なしとして殺すことにためらいはないと思います。ただ、女衒ならばこうした事態になる前に宿に泊まったり、医者を呼んだりしたはずです。大事な商品なので一応は娘の安全や治療を優先したと思います。
そうなるとこの同行者が何者なのか益々わからなくなってきます。瀕死の娘をかかえて助けも求めない、林の中に隠しておきながら殺しもしない。この同行者の謎の行動をどう考えるか?ひとつはこの同行者が小心者で恐ろしくて殺せなかった。もうひとつは娘とこの同行者は上下関係にあり、娘が主で同行者が従の場合で、恐れ多くて殺せなかったということが考えられます。いずれにしても娘と同行者の関係は、先の情夫のような同等な立場ではなく、女衒と女郎という下位の立場でもなく、娘の方が上位ということが推測できます。
寛政2年3月1日はグレゴリオ暦(西暦)に直すと1790年4月14日。今で言うとソメイヨシノが散って八重桜が開花する頃ですが、江戸時代は世界的に気温が低い小氷期と呼ばれ、なかでも18世紀は宝永噴火を始め浅間山の噴火など火山の噴火により異常気象が続き、それによる凶作が原因で天明の大飢饉などを引き起こしています。つまり4月14日とはいえ今よりも寒かったはずです。寛政2年3月1日の嵐というのは、呼び方こそ温帯低気圧ですが台風並みの強風と豪雨をもたらす爆弾低気圧のことだと思います。急速に発達し、冬から春にかけて日本付近で多発する低気圧で、暴風雪、暴風雨によって甚大な被害をもたらします。
2012年4月3日に発生した爆弾低気圧は日本海上で急速に発達し中心気圧が964hpと大型台風並みの低気圧になりました。鉄道は運休、航空機は欠航。夕方に首都圏を直撃することから、東京都は企業に早期帰宅を促す通達を出しました。各地で暴風、集中豪雨による被害が続出し、新潟19万世帯、北海道30万世帯など停電が相次ぎ、住宅の屋根が飛ばされ、電柱が倒れ、車が横転するなど、物的被害は甚大になりました。また、死者5名、負傷者350名と人的被害も大型台風並みの被害が出ました。このように春の嵐は台風と変わらぬ規模で発達し被害も同様に発生します。寛永2年3月1日の嵐も石井伝右衛門が倒木の被害を心配するほどの嵐ですから、大きな温帯低気圧(爆弾低気圧)が通過したのだと思います。
お女郎はそんな嵐の翌朝発見されましたので、その付近で暴風雨に遭難したことになります。暴風雨の中をどう過ごしていたのか?なぜどこかの建物に避難していなかったのか?どうやって死んだのか?そしてまた、お女郎はなぜこの嵐の夜にこの辺りを歩いていたのか?なぜこの日に旅をしなければならなかったのか?特別な事情があったとしか考えられません。
お女郎とその同行者が何者であるかはわかりませんが、その行動は明らかに不審です。まず、忽然と林の中で発見されたということは、それまで現場周辺の村人や街道、宿場の人達の目に触れなかったということで、目立たぬように移動していたのでしょう。前日にこんな娘(もしくは娘のいる一行)を見た。という目撃証言があれば、どこから来たか、どこに向かっていたか、あるいはどんな様子だったのかがわかり、真相解明の大きな手がかりになるのですが、伝説には記録されていません。
余談ですが僕が感心するのは、お女郎仏の話はあったことがそのまま伝えられていて、落ちや尾ひれがついていないことです。大抵この手の話には後日幽霊が出たとか、夢枕に立って何かを伝えたというようなことを付け加えて話を落着させています。別説には自分は女郎で死の間際に下の病に苦しむ人を助けてやりたいと言ったとか、最初差間の人が発見したが見捨ててしまったとかありますが(それが本当ならその人物の証言なりが残っているはず)、あくまでも別説で本説は新聞記事のように客観的です。何しろ死んだ時間まで伝えているのですから、不正確に伝わるのを嫌っているようにも取れます。これはおとぎ話ではなく事件なのだと。ですからお女郎の目撃証言がないというのも実際になかったから伝わっていないのだと思います。
それはともかく、お女郎は誰にも見られていない、また、瀕死にもかかわらず同行者(本人も?)助けを求めていないことから隠密行だった。また、暴風雨の中を強行軍していることから何らかの緊急性があったのだと思います。嵐の中を見知らぬ若い娘が歩いているのはかえって目立つというか、見た人の印象に残る光景です。にもかかわらず誰も見ていないのは不自然です。考えられるのはあまりに無謀ですが夜通し歩いてきた。ということです。
お女郎とその同行者がなぜ嵐の中、人目を避けるように旅をしていたのか?何処かから、あるいは誰かから逃げてきたのか?何か危急の知らせを受けたのか?最悪の天候にもかかわらず旅立たずを得ずしかも目的地に着く前に夜になってしまった。これは当時の常識から言って相当異常なことです。
江戸時代の旅は基本的に夜は歩きません。旅は日の出から日没まで歩くのであって日没前に宿場に泊まります。そのため宿場の端と端には木戸があり日没になると閉じてしまうのです。だから目的地に着く前に日が暮れるなどということはよほど特殊な状況でない限りありえないのです。現代とは違い当時は街道であっても街灯もありません。まして月夜でもない嵐の夜に旅するなど命に係わる無茶なことです。夜通し歩いてきたのかもしれないと言いましたが、わざわざそんなことをしたのではなく旅の途中で日が暮れてしまい、闇と土地不案内で道に迷ってしまった。そして嵐のために身動きが取れなくなったというのが実態ではないかと考えます。
しかしお女郎達は宿屋に泊るでもなく付近の百姓家に助けを求めることもしていません。お女郎発見の場所は御成道から東に入った村道沿いの林の中であり御成道はもちろん発見場所付近に人家がなかったとは考えられません。あるいは付近の寺社の建物で風雨を凌いでいたかもしれませんが。いずれにしても連れ合いが瀕死となったならば助けを求めてしかるべきです。この隠密性と緊急性は何かの「事件」に巻き込まれていたことを暗示しています。そのことが嵐の夜に遭難するという「事故」につながっていったのではないかと思います。
発見時の状況とこれまでの推理でおおよそこのようなことだったのではないか、と推理してみました。しかし依然としてお女郎が何者で、どこから来てどこへ行こうとしたのか?何故嵐の闇の中を旅していたのか?輪郭が見えてきません。真実は永遠に謎ですが、伝説の記述、発見場所や地理的状況、時代状況などからある程度こうだったのではないか?というアプローチをしていきたいと思います。しかしこれまでの推理もそうですが、あくまで推理想像であって学者のように証拠に基づいて真実に迫るというレベルの話ではないので予めご理解いただきたい。むしろエンターテイメントだと思って楽しんで読んでいただければ幸いです。
まず核心部分の謎ではありませんが、お女郎の死因について考えてみたいと思います。お女郎は何が原因で死んだのでしょうか?お女郎という名前からして梅毒でしょうか?結核や心臓病などの持病でしょうか?それとも脳卒中や食中毒、あるいは毒を盛られた、はたまた同行者に首を絞められたとか。お女郎が病死したのか、不慮の事故で死んだのか、殺害されたのかによってお女郎伝説のストーリーが変わってきます。
お女郎の死因を考える際に前提として2つの条件があります。
Ⅰ、嵐の中を歩いていたこと。
Ⅱ、同行者は無事だったこと。
つまりお女郎は嵐の中を歩いて旅するほどの体力があった。また、同行者はどうやら無事だったようなので、お女郎の身の上にのみ災厄が降りかかったことがわかります。こう考えるとお女郎が余命幾ばくもない病身だったとは考えられず、道中に異変が起きたように思います。しかし、お女郎持病説を排除するまでには至りません。持病によって衰弱した体で強行軍をしてきたため、お女郎だけが瀕死になった可能性もあるからです。
この前提をふまえ今一度伝説を振り返ってみましょう。
「寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり、石井家は当時村長を勤めていたので、翌朝官林(土手山)の見回りに行った処、山の中から若い女のすすり泣く声が聞えてくるので行って見ると、十八,九歳くらいの気品の高い女性が病に倒れて苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが病重く言葉も絶え絶え、手掛かりになる所持品もなく、どこの者ともわからず、窮して隣家の杉山さんと相談の結果、庚申塚に仮小屋をつくり、そこに運んで医師を招き治療を受け手厚く看護したが、薬石効なく遂に同月六日午前十時不帰の客となってしまった。」
この記述の中で2つの前提条件の他にポイントとなる箇所は、
1、 気品のある外見だった。見目麗しかったこと。
2、 意識が混濁していたこと。また、意識が戻らなかったこと。
3、 死ぬまでに5日間かかったこと。
4、 仮小屋で治療したこと。
の4点になります。
2つの前提と4つのポイントふまえてお女郎の死因を考えてみます。医者じゃないので、これといった特定まではできませんがさまざま可能性を列挙してみます。
1、の気品の高い、見目麗しい外見だった。ですが、お女郎は気品が高く美しい、身分の高い女性に見えたということなので、顔や皮膚に現れる病気、つまり梅毒や、麻疹、天然痘などの伝染病による症状は見られなかったのでしょう。もしそうなら〝美しいお女郎″という印象は持てなかったはずです。また、伝右衛門等が怪我ではなく「病重く」と見立てていることからアザ、傷、腫れなどの外傷もなく、絞殺に寄る顔の鬱血、首にひもや指の痕も見られなかったのでしょう。ただ、転倒などで頭を強打して脳挫傷になったとして、コブや傷が髪の毛の中にあり見つからなかったということもあるかもしれません。その可能性はあります。
2、の意識が混濁していた。また意識が戻らなかったこと、ですが、伝右衛門がお女郎を発見したとき、すすり泣いていたとあることから意識があったように思いますが、伝右衛門の問いかけに一切答えられていないので意識が混濁していたと思われます。あるいはあえて質問に答えなかった可能性もありますが、その場合その後5日間も死の苦しみに耐えながら沈黙を貫いたことになり、そんなことをするぐらいなら発見される前に自殺しているでしょうから可能性は低いでしょう。死ぬまでに何も会話がなかったようすから、やはり意識が混濁して後に昏睡におちいったと考えるのが自然です。
意識が混濁してやがて昏睡状態になるということは、先程述べたように脳に直接ダメージを受けたとか、脳に血流(酸素や糖分)が行かなくなることによって起こり、その原因は様々です。毒や極端な低血糖、高体温、低体温などによっても起こります。伝右衛門が発見した時点ではすでにお女郎は重体であり、回復困難な容態だったのです。
3、の死ぬまでに5日間かかった。ですが、前述の通り意識混濁から昏睡状態そして死に至ったので、もがき苦しんだのではなく、ゆっくりと生命維持の機能がなくなっていったのだと思います。意識がない以上食事、水分補給、服薬も出来ないので、そのために衰弱死したとも考えられます。「3月6日午前10時不帰の客となる」とありますが、当時の死の判定は呼吸の停止なので、鼻の下に綿を置くなどして完全に呼吸が止まったことを確認したのでしょう。
4、の仮小屋で治療した。ですが、伝右衛門等は何故わざわざ仮小屋を建てて治療したのでしょうか?それよりも誰かの家、どこかの建物に運んだ方が手っ取り早いですし、普通ならもっと暖かい所や清潔な所に運ぶはずです。しかし、医者が来た後もそのままそこで治療しているので、医者もその処置をもっともだと思ったに違いありません。一番考えられるのが隔離ということです。
当時は微生物による感染などという知識はありませんから、隔離という処置だったかどうかわかりませんが、風邪が人から人へ移るように伝染病が病人との接触から移るということを経験的にはわかっていたのではないでしょうか?いわゆる邪気や穢れという概念だと思いますが、村境に道祖神が置いてあるのは病の気の侵入を阻止する意味もありますから、そのような判断で仮小屋を建てたと思います。
←新井宿・石神の村境にある「姥神様」。咳の病によく効く。とか子供の病気を治してくれると言われている。
低体温症
お女郎に死因についてまとめてみると。
*旅の途中で急に瀕死になった。
*伝染病の特徴や外傷などは見られなかった。
*意識混濁から昏睡、そして死という過程でゆっくりと死んでいった。
*伝右衛門等は伝染病を警戒して仮小屋を建ててそこで治療した。
こうして見ると脳へのダメージによる死というのが一番近いというのが感想です。若いので脳梗塞になったとは考えにくいので転倒して頭を強打したか、同行者に殴られたか。しかし、これにはどうしても頭に外傷があったのではないか?との疑問が拭えません。あるいはあったけれども言い伝えからは漏れてしまったかもしれませんが、何がしかのヒントが伝わっていてもよさそうなものです。(鼾をかいたとか)
もう一つ有力な死因として低体温症(凍死)があります。伝説の冒頭「3月1日、当地方で暴風雨があり」とありますが前に述べたとおり春の嵐、いわゆる爆弾低気圧が通過したと考えられます。 冬でもないのに凍死するのかと思われるかもしれませんが、記憶に新しい事故で2009年7月に北海道大雪山系のトムラウシ山で多数の凍死者を出す遭難事故がありました。
夏山と言っても雪渓の残る山。高齢者ばかりのツアー。2泊3日のロングコース。ガイドは実質中止や変更の権限を持っておらず、荒天が予想されていたにもかかわらず山小屋を出発してしまいした。直後から猛烈な風雨がツアー客を襲い、身を隠す場所もない岩山で一人また一人と動けなくなり、隊列はバラバラになり動けない人を見捨てて下山するという惨状になりました。結局9名が低体温症で死亡するという夏山シーズンでは前代未聞の遭難事故となりました。
トムラウシ山
低体温症は体温が下がったまま上がらなくなる症状で、重度の場合死に至ります。ツアー客が次々と低体温症に罹ったのは衣服が濡れ強風に曝されたためです。
お女郎にも似たような状況が起きたのではないでしょうか?闇の中で動きが取れなくなり、暴風雨に曝されているうちに体温を奪われ動けなくなった。同行者にも余裕はなく、お女郎を放置してどこかへ避難。雨が上がり夜も白んできてからお女郎を助けに行ったがすでに息も絶え絶え、もはや助からないと見て林の中に隠した。
なぜ村人に助けを求めなかったかはさておき。お女郎の死因について考えるとき、この暴風雨という要素は外しがたい。直接にせよ間接にせよ死の原因になったのは間違いありません。その中でも低体温症は前述の「脳へのダメージ」説よりも自然です。以前にも述べましたが、江戸時代は小氷期と呼ばれるように今よりずっと寒かったからです。
低体温症は直腸の温度が35度以下に下がった状態を言いますが、最初は体中がガタガタ震えて筋肉の摩擦によって発熱しようとします。それを過ぎると奇声を発したり、意味不明なことを言ったり錯乱状態になります。32度ぐらいに低下すると逆に無関心になります。これは脳への血流が減って脳機能が低下したことによる症状です。やがて揺すっても起きなくなり死亡します。トムラウシ事故ではまさしくこのような経過をたどりました。前述したお女郎の死にもその特徴が見られます。すすり泣いていたとか、問いかけに答えられないとかがそれです。
低体温症の治療ですが、軽度の場合体を温めて、温かい甘い飲み物を与えることですが、中度以降になるともはや自律での体温回復は望めず、胃腸の温水洗浄や温めた輸液で体の中心部を温めます。患者の体を動かしたりさすって温めたりすると返って冷たい血液が心臓に行って死ぬ恐れがあります。
お女郎の様子は中度以上に思われ、伝右衛門等は仮小屋を建て冷え切ったお女郎を温めたのかもしれません。しかし、当時の医療ではお女郎を救う手だてはなく、仮死状態に陥ったお女郎を見守る以外なかったと思われます。ちなみに「薬石効なく」と伝説にありますが、これは治療の甲斐なくという意味ですが、薬石とは「温めた石」という意味もあるのです。
大正2年の夏の駒ケ岳集団遭難を描いた映画「聖職の碑」。この事故は綿密に計画されたにもかかわらず、様々な不幸なアクシデントにより、赤羽校長をはじめ11人の命が失われた大遭難事故となった。
お女郎はどこから来たか?
長々とお女郎の死因について考察してきましたが、おおよそ「暴風雨による遭難死(凍死)」と考えてよいと思います。それにこだわってきたのは死因が何かでお女郎がどこから来たのかが絞られてくるからです。なぜかというと、他殺や病死ならばどこでも起こりえますが、遭難死(凍死)ならば、建物の中や街道上では考えにくいからです。
お女郎の発見場所は図の通り、日光御成道の東の林の中。400m南には赤山街道大宮道と赤山陣屋に通じる道があります。天保年間に描かれた「日光分間延絵図」を見ると日光御成道上には神社仏閣、民家など様々な建物が描かれています。この街道上ではたとえどんな暴風雨に遭ったとしても、避難する場所はいくらでもあったはずなので凍死することはありません。また、ほぼ直線で幅の広い(6間10.8ⅿ)道なので迷うこともありません。さらに言うと、発見場所から大門宿は北に3km、鳩ケ谷宿は南に3.5kmと、どちらでも泊まれる位置にありました。つまり死因が遭難死(凍死)だとすると、お女郎たちは日光御成道の北からも南からも来ていないことになるのです。
これも既出ですが、「お女郎発見場所 日光御成道分間延絵図より合成」
では西の赤山街道大宮道はどうか?これも当時の主要街道なので、遭難死(凍死)することは考えにくいですし、迷うことも考えにくい。そもそも赤山街道上、またその付近で遭難したとして、わざわざ日光御成道を横切って瀕死の連れ合いを隠す理由がありません。整理すると。
1、お女郎たちは日光御成道の北からも南からも来ていない。
2、赤山街道大宮道を西から来ていない。
つまりお女郎たちは東から来た。ということです。
お女郎はどこから来たか?-赤山街道
お女郎が東から来たとして、当時どこからどのようなルートがあったのでしょうか?
日光御成道は東の日光街道と西の中仙道の中間にあります。東から来たとすれば日光街道―日光御成道間のいずれかの道を通ってきているはずですが、下の図のように、北から越谷宿と大門宿をつなぐ越谷道、赤山街道越谷道、草加道、赤山街道千住道の4つがあります。石神を目指すこれらのルートのうち、越谷宿と大門宿をつなぐ越谷道と草加道は宿場間をつなぐ細道といったもので、旅人が通るような主要な道とは言い難い。しかし、越谷道と千住道は当時の武蔵国(埼玉県・東京都)東部の人たちにとってはとても重要な道でした。この2つの道は関東郡代伊奈氏の根拠地(赤山領)にある赤山陣屋に通じる道だったからです。
関東郡代伊奈氏は徳川家康の三河以来の旗本で、初代の忠次が関東代官頭に任ぜらて以来ずっと他の代官とは別格の地位を継承しており、30万石に及ぶ支配地、江戸4宿(品川・新宿・板橋・千住)の支配、関東の河川行政、重要な関所の管理、江戸近郊の将軍や御三家の鷹場の管理、大奥用の物資の調達、公金貸付など、関東の民生や将軍家の御用など、じつに多様な職務に服しており、関東では知らぬ者はいない存在でした。赤山陣屋は江戸の馬喰町の郡代屋敷と各支配地の村々や宿場や関所などの所轄機関をつなぐ役割をしていて、そこにつながる道は常に役人や農民などが往来する道だったので、関東の民、とりわけ武蔵国東部の民にとっては日光街道や御成道以上に重要な道だったのです。土地不案内のお女郎たちが東から来たとすれば、この赤山街道越谷道か、赤山街道千住道しかなかったと思います。
この2つの道のどちらから来たのでしょうか?
その前に一つ考慮しなければならない問題があります。越谷道、千住道のいずれから来たとしても、お女郎の発見された土手山御林は北に大きくずれているのです。どうしてそんなに外れてしまったのでしょうか?それは2つの道は赤山陣屋で行き止まりになってしまいそれ以上西に進めないからです。なぜ西に進めないかというと赤山街道と赤山陣屋の構造が下図のようになっているからです。お女郎が土手山にいたということは、陣屋で行く手を阻まれ、反時計回りに広大な陣屋を迂回して来たということなのです。
赤山陣屋の構造。赤山陣屋は周りを低湿地で囲まれている上、いずこの道から来たとしても四つ門といわれる門に突き当たり、ここを通らなければならない。門には門番屋敷があって通行者をチェックしている。
再び登場 お女郎遭難図
*千住道は武南病院付近から西と東に分かれてそれぞれ赤山陣屋に通じる道がありますが、西を通れば赤山陣屋に進路を阻まれず御成道に抜けられることから、東を通って行ったと仮定しています。
上図のように赤山陣屋は低湿地を外堀とした天然の要害であり、中に入る、あるいは通過するには四つの門をくぐらなければならない。越谷道、千住道のいずれの道から来たとしても門があり通行人はチェックされる。人目に触れたくないお女郎たちはそれを避けたい。あるいは嵐か日没のせいで門が閉まっていたか?しかし門を避けて西に抜けようとしても低湿地があり抜けられない。つまり赤山陣屋についた時点で行き止まり。そんな特殊な構造を知らなかったお女郎たちは、仕方なく赤山街道を外れて反時計回りに赤山陣屋を迂回して土手山御林まで行ったと思われます。しかし嵐の中で日没が迫り、地元の人間しか知らない道を行けば迷子になる可能性がある。まして千住道を南に下れば鳩ケ谷宿に通じる道(草加道)があるのに、なぜそんなリスクを冒したのでしょうか?そこにお女郎たちの行先(目的地)が関わっているように思うのです。少しでも早く目的地にたどり着くには、南から西に抜けるのではなく、北から西に抜ける方が早いと判断したのではないでしょうか?前回お女郎は東から来た、と述べたのは、想定外(赤山街道・陣屋の特殊構造)の理由から街道を外れて陣屋を反時計回りに迂回したために「東から来た」ことになったと思うのです。
そこを踏まえ越谷道は越谷宿から、千住道は千住宿から来たと仮定してみます。また、当時の旅は宿場から宿場への移動なので、それぞれどこの宿場に向かおうとしていたのか考えてみます。
越谷宿から
越谷宿から赤山陣屋までは7.2km。女性の足で時速3.5kmとすると2時間ちょっと。暗くなって道に迷って遭難したとすると、当日の日没が18時過ぎなので、16時前後に越谷宿を出立したことになります。(この時刻に宿場を出立するとは考えにくいが)この時間からの旅程を考えると、鳩ケ谷宿での宿泊を想定するのではないでしょうか?大門宿では遠すぎて日没に間に合いません。そして陣屋の門を避けるか、閉まっていたとしても、鳩ケ谷宿は南西にあるので、千住道を南下して草加道から鳩ケ谷宿に向かうのが妥当だと思います。もっとも、大門宿を目指していて、想定外の事情により遅れたのだとすれば別ですが。
千住宿から
千住宿から赤山陣屋までは14km。女性の足で約4時間。陣屋で日没を迎えたとすると、と遅くとも14時には千住を出立します。この旅程でもやはり鳩ケ谷宿を目指すのが妥当ですが、途中2か所、鳩ケ谷に向かう道がありながら、そのまま北上していることから、大門宿を目指していて、何かの理由で遅れてしまい、陣屋の門に阻まれて迂回したのかもしれません。
以上のことから、越谷から来たとしても千住から来たとしても鳩ケ谷宿を目指していないことがわかります。お女郎たちはもともと赤山街道をたどって日光御成道を北へ、あるいは赤山街道大宮道を西へ行きたかったのではないでしょうか?
次回、地元の人たちはそれをどう考えていたのか?100年ぐらい前に書かれた文献をもとに考えてみたいと思います。
お女郎はどこから来たか?-東武鉄道沿線名所案内より
知人からお女郎に関する記述があると大正3年(1914年)発刊の「呑龍上人御実伝」という本をいただきました。呑龍上人とは江戸時代初期の浄土宗の僧で、群馬県太田市の大光院という寺を開基した人で、孤児や貧しい子供を引き取って養育したので別名「子育て呑龍」といわれ、今でも篤い信仰を集めています。(太田市HPより)
その呑龍上人の伝記ですが、その付録に東武鉄道沿線名所案内という観光案内があり、堀切の菖蒲園や西新井大師など、東武沿線の観光地が詳しく解説されています。その中に「安行植物培養園という案内があります。これは園というより安行一帯の植木農家のことを指していると思われますが、その説明の後、女郎仏に関する記述があります。おや?という内容ですが、当時おそらく地元の人たちが考えていたお女郎の顛末が記されていますので一応全文を紹介します。
「また、安行の西、神根村字石神に女郎仏あり。①越後高田の豪農某氏の一女、堕落の末、家を追われ、ついに②江戸新宿(内藤新宿)の娼妓となり、応報の因果は不治の病の悪疫を得て、再び郷里に帰らんとする途中、③板橋より日光街道に入り、鳩ケ谷をへてこの石神に着せるとき、病革まり(悪化し)敗残の身を哀れ路傍の草露に託して、時は寛政二年弥生の六日、無情の鐘を合図に現世を去れり。里人これを憐れみ、一宇の堂宇を結んで女郎仏と名付け、今は新暦四月六日を忌日と定め、毎年法要を怠らず、且つ盂蘭盆には大法要を行う。いつの頃よりか腰より下の病気に霊験ありと伝えられ、四時香華の絶え間なく、法会の際の如きは境内雑踏を極む。」100年前の人々はこのようなストーリーを考えていたようですが根拠は不明です。お女郎伝説の諸説というべきものでしょうか?しかしこれにはお女郎が何処の誰で、どこから来てどこに向かっていたのかが示されています。
① 越後高田の豪農某氏の一女
この名所案内ではお女郎の出自を「越後高田の豪農某氏の」としています。やはり越後説は昔からあったのですね。しかし越後新発田藩主のご落胤ではなく越後高田の豪農の娘とは?このように具体的に示しているのは何か根拠があったのでしょうか?
② 江戸新宿(内藤新宿)の娼妓となり
この娘が堕落の末、内藤新宿(江戸四宿の一つ。甲州街道の入り口にあたる。現在の新宿区一~三丁目)の女郎となったそうですが、女郎となったのはともかく、新宿に住んでいたというのも何が根拠なのかわかりません。もしかしたら手掛かりがあったのかもしれませんが、それなら今でも妙延寺の縁起に書かれているはずなので、根拠は薄いと言わざるを得ません。
③ 板橋より日光街道に入り、鳩ケ谷をへてこの石神に着せるとき
これが一番謎なのですが、①②が当時の人がストーリーを仕立てるための創作だとしても、この越後に帰るのに、板橋より→日光街道に入り→鳩ケ谷をへて→この石神に着せる時、という無茶苦茶なルートは、当時の人たちの地理感覚が今ほど正確でないとしてもありえないほどずれている。なぜこのように見当を付けたのでしょうか?まず、江戸から越後に至るルートを見てみましょう。
地図に修正液で書いたので甚だ汚いですが、江戸から越後高田もしくは新発田藩説の新発田のルートを書いてみました。越後高田あるいは越後新発田に向かうには以下のルートがあります。
越後高田ルートは中仙道―北国街道
越後新発田ルートは中仙道―三国街道もしくは日光街道―会津街道
お女郎の故郷が越後高田だとすれば板橋から中仙道―北国街道のルート以外にはない。しかしこの東武鉄道沿線観光案内では以下のルートをたどったとしています。
東武鉄道沿線観光案内のお女郎ルート
なぜそのまま中仙道を進まなかったのか?また、何かの理由で鳩ケ谷宿に立ち寄ったとしても、なぜ日光御成道から来ずに千住宿を経由したのか?この観光案内には書かれていませんが不合理と言わざるを得ません。しかし、これが書かれた当時の地元の人たちが、“あること”を考慮に入れてこのような見当をつけたとすれば、あながち荒唐無稽とは言い切れなくなります。それどころか真実味さえ帯びてくるのです。それは、
「寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり」という記述です。
お女郎の旅路まとめ
お女郎が旅の起点として板橋宿にいたとすれば、故郷の越後に向かうには当然中仙道を進みますが、その日が伝説の通り「暴風雨」だったとしたらどうなるでしょうか?すぐ前には荒川があります。そこには橋が架かっておらず、渡し船で渡らなくてはならないのです。江戸幕府は江戸の防衛上江戸を囲む大河には架橋しませんでした。
荒川や利根川、東海道に至ってはいくつも川がありながら、もっぱら渡し船か川渡し人足に渡してもらったのです。しかし、この川越しは大雨が降って川が増水すると渡船を中止します。
これを川止めといって、旅人は川止めが解除されるまで何日も足止めされるのでした。
木曽街道(中仙道)蕨の駅戸田川渡し場
もし戸田の渡しが暴風雨で川止めされていたら、普通は嵐が過ぎるまで待つのですが、お女郎たちが何らかの理由で旅を急いでいたとすれば、川を渡る手段はただ一つ。東に大きく迂回して「千住大橋」を渡るしかないのです。
千住大橋は文禄3年(1594)に荒川下流に当たる隅田川に最初に掛けられた橋ですが(当初は防衛上の理由で唯一の橋だったが、明暦の大火後は防災上の理由から次々に架橋された)、この橋は日光街道(奥州街道)、水戸街道、佐倉街道に通じています。「板橋より日光街道に入り」というのは暴風雨で渡し船が出ず、やむなく千住大橋を渡って日光街道に入ったと考えたのではないでしょうか?そこから鳩ケ谷宿を通過して石神というルートを推測したと思います。このように一見無茶苦茶なルートも、渡船ができなかったと考えれば一気に現実味が増すのです。
名所江戸百景 千住の大橋
鳩ケ谷宿を通過したかどうかは置くとして、私も今まで述べてきたことからして、お女郎が江戸の人で千住大橋を渡ってきたと思っています。問題はどこに行こうとしたか?100年前の人々は越後にこだわっていますが、お女郎が上記のルートを辿ったとするならば越後などの遠方ではないと言わざるを得ません。理由は女手形にあります。
幕府は諸大名の謀反を防ぐために関所の重要な役目として、「入り鉄炮出女」といって、関東に鉄砲は持ち込ませず、また、幕府の人質として江戸に滞在している大名たちの妻女が関所の外に出ることを厳しく取り締まりました。女手形とは女性が箱根や碓井・栗橋などの関所を通過する際、
幕府や大名の留守居役が発行する手形のことを言います。これには旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性など書き込まれてあり、関所において入念にチェックされました。例え庶民の女性といえどもこれがないと関所を通過できないのです。
女改め(箱根関所公式HPより)
この女手形を取るには江戸町人の女性の場合、まず町名主に証明書を書いてもらい、それを町奉行に提出し許可を得る。さらにそれを幕府留守居役に提出して許可を得てようやく女手形が下りるのです。ですから江戸の女性が関所を越える長途の旅に出ようすれば入念に準備・計画しているはずで、突然旅に出るなどありえないのです。旅につきまとう川止めなどは当然織り込み済みであって、5里も6里も迂回するなど時間と体力の無駄をするはずがないのです。
女手形(箱根関所公式HPより)
お女郎はどこに行こうとしたか?
お女郎発見時に身元につながる所持品がなかったので、同行者が持ち去ったと考えられますが、そもそも女手形は最初から持っていなかったのではないでしょうか?つまり、女手形の必要のない関所の内側、江戸近郊のどこかを目指していたのではないでしょうか?もっと言えば1日で十分到達する距離の土地に向かっていたのではないでしょうか?それならば川止めから千住大橋―西へ向かうとい迂回ルートもつじつまが合うのです。
「お女郎は江戸からそれほど離れていない土地を目指して旅に出た。しかし暴風雨で荒川を渡ることができなかった。何らかの事情により旅を急いでいた彼女は、唯一の橋である千住大橋を渡って大きく迂回する道を進む。しかしまた赤山に来たところで赤山陣屋の門に閉ざされ、やむなく迂回していたところで日没。進退窮まり、冷たい暴風雨にさらされて凍えて倒れてしまった。同行者は道案内役としての自分の失態を隠ぺいするために、夜が明けるとまだ息のあるお女郎を土手山に隠して所持品を持ち去って何処へ逐電(行方をくらます)した。」
今までの推理を整理するとこうなります。お女郎の旅。それは本当のところどうだったかは定かではありません。これまで発見時の状況から死因、死因からその旅の経路を推理してきました。可能性として当たらずとも遠からずといったところでしょうか?しかしどう推理したとしても証拠はありません。ですからそろそろこの項を終えたいと思います。このお女郎縁起考のテーマはこのお女郎が何処のどんな人で、どんな生涯を送ったのか?ということなので、そろそろそこに入っていきたいと思います。
じつを言うとお女郎につながるかもしれないある伝説があります。そしてお女郎とはその伝説に出てくる人ではないか?ということを前提に逆説的に推理してきたのが今まで述べてきた「お女郎の旅路」なのです。年の頃、美人であること、暴風雨の中を旅してきたこと、道不案内だったこと、目指していた場所。そして置き去りにされてしまったことなど。すべてはその伝説に出てくるその人を前提で推理してきたのです。次回からその伝説を明らかにしていきます。
次号に続く。
お女郎縁起考 大宮宿編
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