新井宿や赤山など神根地域の歴史や偉人について調べ、地域の魅力に迫っています。知るとますますこの街が好きになります。
江戸時代
江戸時代にはこの辺りは赤山領と呼ばれ、関東郡代伊奈氏の知行地であり、伊奈氏が支配する役所(陣屋)が置かれた武蔵国東部地域の重要な行政拠点でした。
伊奈氏の歴史は初代忠次が徳川家康の関東入府する際に代官の頭領である関東代官頭に任ぜられたのが始まりです。その地位と遺業を引き継いだのが忠次の次男、半十郎忠治です。1618年忠治は実質的に代官頭を引き継ぐと赤山に陣屋を置き、関東平野の大開発に乗り出していきました。
関東郡代伊奈氏の歴史はこのHPの「関東郡代伊奈氏の200年小冊子」のページにまとめてあります。ご覧になるには↓のタイトルをクリックしてください。各テーマごとにPDFで見ることができます。
当会推奨!伊奈町制作、伊奈忠次PR動画。初代伊奈忠次の劇的な生涯をわかりやすく描いています。必見です!↓のタイトルをクリックしてください。
*この動画のリンクは伊奈町より了解を頂いております。
このページでは、伊奈氏の歴史の中でも特に印象深い「伊奈忠順」に関する歴史について紹介します。*上記の「関東郡代伊奈氏の200年小冊子」にもPDFでまとめてありますので、自由にダウンロードしてください。
歴史探訪シリーズ
没後300年
宝永噴火と伊奈半左エ門忠順
はじめに
新井宿在住、および川口市民の皆さま。この凛々しい姿のお侍が誰かご存知でしょうか?
ご存知の方は相当な郷土史通ですね。しかし、本来は多くの市民が知っていて当然の立派な代官なのです。
この人は江戸時代前期・中期に代々関東郡代を世襲した伊奈家の7代目、伊奈半左エ門忠順(ただのぶ)という人です。ちなみに代官とは勘定奉行の配下で、幕府の直轄領を将軍に変わって統治する役人です。郡代は同じ代官ですが各地に散らばる幕府の直轄領をまとめて支配する役職で、担当地域が広く、代官が5~10万石くらいで郡代は10万石以上になります。その中でも関東郡代は30~40万石ぐらいあり、実力、格式から言えば大大名に匹敵する強大な権力をもっていました。
伊奈家は代々治水・利水、新田開発などに優れた業績を残しており幕府の信頼も厚く、それ故関東郡代という重責の世襲を認められていました。
新井宿駅を東に20分ぐらい歩くと県指定史跡の赤山城跡がありますが、ここに関東郡代伊奈家の陣屋(城)がありました。川口市の北部・東部は赤山領といって伊奈家の所領で、赤山陣屋は赤山領の在地支配と家臣屋敷、関東郡代の代官所という機能を持った、関東郡代伊奈家の心臓部ともいうべき拠点でした。
すなわち伊奈家を調べることは、川口はもとより、近世関東の重要な歴史を知ることになるのです。
伊奈忠順と宝永噴火のはなし
宝永4年(1707年)11月23日。富士山は843年ぶりに有史以来最大級の噴火をしました。噴火は16日間続き、大量の火山灰を富士山東麓および江戸にまで降らせました。
特に富士東麓の御厨地方(小山町、御殿場市、裾野市の一部)は山林、家屋、田畑、河川・用水すべてが大量の砂に埋もれ壊滅的な打撃を受けました。当地支配の小田原藩は早々に復興をあきらめこの地を幕府に返上してしまいます。幕府はこの御厨地方と足柄上郡、下郡の支配と復興を関東郡代伊奈忠順に兼務させます。しかし、幕府は被災地の復興には全く消極的で、そればかりかそれを政争の具にするようなありさまでした。
そんな中伊奈忠順は寝食を忘れて孤軍奮闘しますが、復興は困難を極めます。特に降砂が深刻だった御厨地方では離散するもの餓死するものが続出し、悲惨な状況になっていました。忠順はこの状況を座視できず、幕府の貯蔵米がある駿府の米蔵を、掟を破って独断で開き、窮民に分配してしまいます。
やがてこの件が幕府に知れ、役を解任されると忠順は翌年正徳2年(1712年)2月29日に急死します。一説によると。責任を取って切腹したと伝えられています。
復興の道はその後長きにわたって続きますが、御厨地方ではこの恩義を代々伝え、忠順は“御厨の父”として当地で不忘の人となりました。
そして慶応3年(1867)有志により小祠を建立、明治11年(1878)吉久保水神社と須走立山中腹上真地に小祠を建立、明治40年(1907)須走字西ノ沢王子ケ池に伊奈神社を建立しました。更に昭和32年10月7日に小山町須走字下原に移され現在に至っている。
You Tube「伊奈神社」(2:58)
静岡県駿東郡小山町須走鎮座
御祭神 伊奈半左衛門忠順公
宝永富士山大噴火の際にこの地域を救った
大恩人として、今も大切にお祀りされています。
宝永噴火の概要
宝永4年(1707年)11月23日、富士山はその噴火史上最大級の噴火をしました。貞観の噴火(864年)以来843年ぶりの巨大噴火です。地下20㎞のマグマだまりが滞留することなく上昇したため爆発的な噴火となりました。噴煙の高さは上空20㎞に上り、溶岩の流失はなく、大量の降砂・降灰をもたらしました。噴火は16日間続き、12月8日に収まりました。噴火による直接の死者はほとんどいませんが、富士東麓一帯を大量の焼砂が覆い、被災地は一切の生活基盤を失ってしまいました。
御殿場市桜公園にある「富士山宝永噴火之図」 この噴火は溶岩の噴出はなく、もっぱら膨大なテフラ(火山噴出物、火山弾、焼砂、灰など)を富士東麓に放出し、遠く江戸まで灰を積もらせた。絵図には火口から大量のテフラが須走方面に降下したようすが描かれている。
宝永噴火の降灰地図 広大な範囲で厚い砂に覆われたことがわかる。噴出量は7億㎥、12億tと言われている。東日本大震災の災害廃棄物総量が2,765万tなので、実にその43倍ある。震災がれきでさえ1年半以上かかって仮置き場に搬入された量が半分にすぎない。重機も何もない時代のこの災害がいかに絶望的なものだったかがわかる。(中央防災会議「災害の教訓-火山編」より)
新田次郎の小説「怒る富士」上下巻
小説家の新田次郎氏は富士山の気象観測所に勤務していたおり、地元の職員よりこの話を聞き、ずっと心に残っていたそうです。そして資料を調べに調べ、1974年に文芸春秋社から小説「怒る富士」を上梓しました。あとがきに「私としては今までになく気張った小説であった。小説としての興味よりも、真実としての興味に、いつの間にか引っぱり込まれていた。この小説の出来不出来は別として、ひどく手間がかかり、疲労を覚えた小説だった。いい仕事をしたという満足感はあった。」と述べています。
噴火の様子を伝える当時の記録
宝永噴火は近世封建社会が成熟しつつある頃の出来事で、多くの地域、階層の人々が記録に残しているので、当時の様子を克明に知ることができます。 富士山にほど近い印野村の記録では 「富士山の八合目ほどの所から火焔と焼け出し候。火の雨降、大きなる石降り、砕けてみれず、炭をおこしたごとくなり候」とあり、山麓の村には大きな火山弾が降り、地に落ちると粉々に砕け散って燃え上がったという。
須走村の民家はこれによりことごとく焼けてしまった。また、降灰(焼け砂)は3m以上堆積し「村中焼け、残家とも砂に埋まり、屋根少し見える」とあり全村が壊滅状態になりました。 また、大御神村名主六左衛門の家では一家三名が剃髪をしたうえ、薪を積んでその上に座り、住持から引導を受けて死を待ったと伝えられていて、この大噴火に絶望した人々の状況をよく表しています。
江戸にいた新井白石は「折たく柴の記」には「昨夜地震があり、この日の午の刻(一二時)雷の声がする。家を出て、雪の降り下るようなのをよく見ると、白灰であった。西南の方に黒い雲が起こり、雷の光がしきりとした。(中略)地鳴りや地震はしょっちゅうで、二五日また空が暗くなり、雷のひびきのような音がし、夜には灰が大変降った。この日富士山に火が出て焼けたためであると判明した。」とあり、遠く江戸にも夜のごとくする降灰があり、空震が障子をがたがたと震わせ、雷の音が響き、地震が絶え間なく続き、富士の異変が遠く江戸にあっても、ダイレクトに感じられたようです。また、この頃ほど世間の人がのどを痛め咳に悩まされたことはなかったと伝えています。
噴火によってできた巨大な噴火口と隆起部は宝永山。(ウィキペディアより) 噴火の始まる49日前にマグニチュード8.6〜8.7と推定される宝永地震が起こった。先ごろ内閣府が被害想定を発表して注目を集めている南海トラフ巨大地震である。宝永噴火はこの地震に誘発されて起こったとされている。(画像はウィキペディアより、「十里木高原から望む富士山の宝永火口と宝永山」作者-Alpsdake)
幕府の取り組みと伊奈忠順の派遣
被災地を抱える小田原藩では、あまりの惨状に自力での復興を早々にあきらめ、領地の6割に当たる駿東郡、足柄上郡・下郡を幕府に返上してしまいます。被災農民は強訴をして救恤米の支給を約束させますが、支給されたのはわずかなもので、たちまち飢餓に陥りました。
幕府は被災地を幕領化するとともに、諸国に命じて高役金(義捐金)を課し48万両を集めましたが、実際に被災地に使われたのは6万両で、残りは財政補填などに流用してしまいます。そればかりか10万両は使途不明金でした。6万両の内訳も酒匂川をはじめとする諸河川の砂浚いなどの工事ですが、江戸商人への指名入札でした。幕閣と商人の癒着を物語るものです。 しかも降砂の最も激しかった駿東郡御厨地方の復興はあくまで自力で行うこととされ、巡検にきた幕府役人も「各々自分の縁を頼り、離散して此処を去るべし」と諭すありさまで、完全に見捨てられてしまいます。裏を返せば幕吏の目にもこの地の復興などとても不可能だ、と映ったのです。
そんな中、幕府は被災地を関東郡代の支配とし、かつ、伊奈忠順を酒匂川の砂除川浚い奉行に任命します。忠順は上記のような幕閣の復興への消極姿勢の中で、扶持米の支給はもとより、長期間の年貢の免除、被災民を河川工事に雇用して賃金を優遇するなど復興事業と雇用対策をミックスした施策を実施しています。また、被災民の代表を江戸まで連れて行き、勘定奉行などに引き合わせて砂除け金の支給を約束させるなどして必死に復興に取り組みました。
しかしこれらの施策は、本来何十年もかかるはずの大災害の被災地を復興まで支えるものではなく、あくまで忠順と被災民の必死の嘆願に対する臨時措置でしかありません。このような幕府の基本方針が変わらない以上、被災地を救えるはずもなく、忠順も被災民も次第に追い詰められ、状況は深刻さを増していきました。
正徳元年(1711年)忠順は朝鮮通信使入朝の接待役を命じられています。国威を外国に示すためと聞こえはいいですが、幕府はこの韓使聘礼の為に60万両もの大金を使っています。見栄の為には国庫をはたいても、飢えて死なんとしている民には手を差し伸べようとはしないのです。皮肉にもその接待役を仰せつかった忠順の心中は察して余りあるものがあります。
富士スピードウェイ付近のスコリア(火山砂)堆積層 採砂場のスコリア層。優に3mはある。須走村で1丈(3m)、柴怒田村で7尺(2m)など富士東麓一帯が深い砂に覆われた。スコリアとは軽石の一種。ここから採取してきたスコリアは水との比重が1:1.2で水よりも少し重かった。
政治に翻弄される忠順と被災地
先にも述べましたが、幕府は諸国から集めた高役金(義捐金)を被災地に使いませんでした。勘定奉行だった荻原重秀はのちに新井白石に追及されると江戸城の改修などに使ったなどと開き直っていますが、それさえ真偽のほどは不明です。このころの幕府財政は開府以来の貯金を使い果たし、構造的に支出が収入を上回る慢性赤字に陥っていました。そこで荻原は貨幣の改鋳(金銀の比率を低くする)をして貨幣量を増やし、巨大な利ザヤを稼ぎだしました。その額500万両と言われています。しかし、構造赤字に手を付けず、かつ将軍綱吉の浪費癖がひどく、たちまちそれも底をついてしまい、財政赤字は解消されずにいました。
宝永噴火が起きたとき、荻原の頭には始めから被災地の救済という目的はなく、これを名分にして財政補填をすることしかなかったと思われます。それは幕府の復興政策に関する記録を見るとわかります。
幕府は噴火が収まって2か月もたたないうちに被災地の幕領化を決定すると矢継ぎ早に復興策を打ち出していますが、この内諸国高役金と酒匂川のお手伝い普請は勘定奉行荻原重秀の主導でした。 お手伝い普請とは公共工事を幕府の代わりに藩が費用や人足を負担するもので、選ばれた藩にとっては迷惑千万なものでした。荻原は全国から義捐金を集めておきながら、実際の工事にはその金を使わず、お手伝いの藩に負担させています。これは誠に筋が通らず、起案のそばから非難されても仕方がないようなことをしていますが、なぜかこれが実行に移され、かつ、その後も繰り返されています。
伊奈忠順は関東郡代という重職にありますが、勘定奉行の配下にあり、幕府の政策を実施する官僚であるので、この種の決定に関与する権限はありません。しかし、老中その他の首脳たちが沈黙していたのはなぜでしょうか?のちに荻原は新井白石に弾劾されますが、荻原ばかりでなくこの時の首脳たちも同罪だと思います。つまりは荻原のたくらみを判っていながら黙認したということなのですから。
先の年表を見ると閏1月7日に諸国高役金の触れ出し、同日に伊奈忠順を砂除け川浚い奉行に任命し、その2日後に岡山藩等にお手伝い普請を命じて、2月には早くも江戸商人による工事が始まっていることから、最初から荻原等によってこの流れは決まっており、忠順が口を挟む時間も余地もありません。その間、被害激甚だった御厨地方へは砂の深さ3尺以上の39か村に1人1日1合の扶持米代金を支給しただけでした。 荻原は義捐金にはほぼ手を付けず、復旧工事は各藩に押し付け、被害の深刻な御厨農民を見殺しにすることによって巨額の財政補填に成功します。しかも何度失敗しても江戸商人の請負いに終始したことは汚職、癒着を疑われても仕方がありません。しかしこれを荻原一人の責任とするのは酷だと思われます。荻原としては逼迫する財政事情を何とかしようとして不義を承知でやったことであり、周りの首脳たちは後ろ暗さがあるが、結果的に財政が潤うことになるので黙認していたのですから。なにしろ将軍綱吉からして、知ってか知らずか浪費を繰り返していたので、荻原が自己正当化するのもわからなくもありません。
このような事情なので、伊奈忠順が繰り返される工事の失敗の責任を問われることはありませんでしたが、被災地での悪評は一身に集まることになってしまいました。今でも足柄地方において忠順の評判が悪いのはこの件と、御厨地方の砂を酒匂川支流に捨てさせたせいだと言われています。
この砂捨ての件は、実際は後年(享保年間)忠逵のときに行われた砂除堰(流水で砂を流す水路。結局川に流すことになる)のことだと思いますが、一面、2mも3mも積もった砂を運ぶのにトラックもなかった時代に他に方法があったでしょうか。また、砂は被災民の生活圏だけでなく山野を広く覆っているので被災民が砂を捨てなくても結局は雨が降ると川に流されてしまいます。
ですから忠順一人を責めたところで仕方がないのですが、繰り返し被害を蒙った足柄農民からしたら、誰かを責めずにはいられなかったのでしょう。為政者の職分として忠順はこの怨嗟の声を甘受するしかありませんでした。
このように苦しい立場の忠順でしたが、被災民の訴えによく耳を傾け出来る限りのことをしています。扶持米が打ち切られると御厨地方を1か月半掛けて隅々まで巡検しました。
この時の言い伝えに「若い殿様なのでよく動いた。馬を供のものに曳かせ、本人はもっぱら歩いて回った。誰にでも気さくに声をかけて話を聞いた。被災民から声を荒げられても決して怒ることはなかった」などとあります。
それにしても代官の最高峰、関東郡代自ら1か月半もかけて巡検するというのは異例というほかありません。その後忠順は被災民の代表を江戸まで連れて行き、荻原重秀等に会わせると、御厨地方から酒匂川普請に出稼ぎに行っている人足達の賃金を大幅にアップさせることと、砂除け金の支給を約束させています。被災民を勘定奉行に会わせ、その談判に同席させるなど異例中の異例ですが、忠順としては被災民の苦境を本人たちに直接訴えさせることによって、勘定奉行はじめ幕閣たちの態度を改めさせたかったに違いありません。
忠順のこの熱心な斡旋により、実際に人足代のアップは実現しましたが、砂除け金については微々たる支給でしかありませんでした。これはどういうことなのか?おそらく荻原等の考えは、人足代はあくまでお手伝いの各藩が出すので、懐が痛まないから引き上げに応じた。しかし砂除け金は幕府が出すのが筋なので、形ばかり応じたに過ぎなかったのでしょう。結局忠順や被災民がいくら訴えても幕府の態度を変えることはできませんでした。やがて酒匂川の普請も終わり、人足代も稼げなくなると、以前にも増して困窮が深まるのでした。
伊奈神社の本殿に取り付けられている彫刻忠順と被災民の復興に取り組む様子が
描かれている
酒匂川大口堤付近
酒匂川は富士東麓の降砂が支流に流れ込み、河口に近づくにつれて大量の砂が堆積し、氾濫を繰り返すようになる。この大口堤が何度も決壊し、下流の足柄地方の農民を苦しめていく。 忠順は降砂が深刻な御厨地方(駿東郡59か村)の復旧に派遣されてきたのではなく、穀倉地帯である足柄地方の川普請を命じられてきたのである。幕府が御厨地方に冷たかった理由は明確で、小田原藩から返領された6万石の内、足柄地方は5万石、御厨地方は1万石だった。つまり生産性の低い御厨地方は、はなから救済の対象ではなかったのである。
忠順、独断で幕府の米蔵を開き棄民に支給する
御厨地方には忠順が駿府代官所の米蔵を勝手に開き、1万3千石の米を飢えに苦しむ棄民に支給し、その咎で罷免され責任を取って切腹したと伝えられています。 実際には忠順は罷免されてはいないし、記録では病死となっています。また、駿府の米蔵を勝手に開いたとする証拠もない。しかし、そのようなことがあったことを匂わす文書もまた存在し、忠順の死も病に臥した後亡くなったのではなく、突然死しているので何かありそうではあります。
新田次郎氏の「怒る富士」では支給は正式な手続きを得ない指示書によって行われ、農民からも受取書をもらわなかったとして、最初から忠順が咎を一身に受ける覚悟だったとしています。奇妙なことに忠順の死を境にして被災地の復興は驚くべき速さで進んでいます。土地の古老の話では「幕府の要職たちは伊奈半左エ門様が切腹したことによって心を改め、その後お扶持米を下されるようになった。被災地の百姓たちは、伊奈様の死を悼んで、しばらくは何も言わずに砂除けに精を出そうと申し合わせた」と伝えています。 新田氏は小説の中で忠順にこう言わせています。「支配地の民を生かすために代官が死なねばならないこともあります。支配地の民を犠牲にして代官が生き延びようとするのは、代官として末世までの恥と心得ております。」 伊奈忠順という人は実際そういう人だったのでしょう。その死に関して諸説はありますが、前後の事情を考えると憤死、過労死に近いものだったのではないでしょうか。
幕府役人として忠順が被災地に対して出来たことは限られたものだったはずです。しかし今なお当地では御厨の父として祀られている。それは当時にあって忠順が彼らを見捨てなかった唯一の為政者だったからです。
被災地の復興はその後、忠順の養子忠逵(ただみち)に引き継がれ、噴火から36年間の長きにわたって伊奈代官の支配のもとに置かれます。
大口堤にある福澤神社
享保11年(1726)大岡越前守の命を受け田中丘偶が大口堤の締切工事に着手。完成した堤を文命堤と名づけ、その鎮護のためにこの神社を建立した。この文命堤は非常に分厚く、頑丈なものだが、享保19年にはまたもや決壊してしまう。降砂の土砂災害の破壊力、厄介さがわかる。翌年、丘偶の養子の蓑笠之助により堤の復旧が行われ、酒匂川はようやく流路の固定を得るのである。
不忘の人、伊奈忠順
忠順伝説はいろいろあって以下のようなものに集約されます。
死の諸説は、「怒る富士」では不備の文書を承知で米蔵を開けさせ、咎めを受ける前に切腹した。(まあ、これは小説なので) 「伊奈神社由来」の碑では窮民施米をして、咎めを受けて切腹させられた。「欽行録」では施米をしたが、咎めは受けていない。と施米に関する似たようで違う話がいくつかあります。しかし、『富士山宝永大爆発』 永原慶二、ではどれも根拠がないとしています。(これは学術新書なので実証主義を取っています)
また、忠順が復興に尽力した大恩人であると信じる地元の人々と、あくまで復興は伊奈氏や他力に寄らず農民自力の成果だとする近年の学説はこれまた正反対の主張です。このことをどう捉えていいのか、忠順の伝説は作り話なのか?伊奈代官は何もしなかったのか?ならば何故御厨地方に古く広く、忠順崇敬の念が続いているのか?どの書籍資料を見てもこの矛盾について言及していません。
しかし、この矛盾を説明できる、極めて短い記録が存在します。
それは忠順の戒名です。 忠順の戒名は「嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士」
「嶺頂」とは富士の頂と思います。伊奈氏代々の戒名はそれぞれ意味のあるおくり名だと思うのですが、忠順に嶺頂とは特に生前の執着を象徴していて他に意味を見いだせなく、富士の事としか思えません。忠順がいかに被災地に傾注したのか、伊奈家中の人やこれを付けた人には歴然だったのでしょう。
「松誉」とは忠順は父の忠常が建てた赤山陣屋の八幡宮を、母の願いにより松杉を植え直し、整備している。これは親孝行という意味にも取れます。また、陣屋には忠順より後代に松の木が非常にたくさんあったのですが、もしかすると忠順時代に植樹されたものかもしれません。忠順の徳を松に擬していると思います。
「泰運」とは安らかなる運気。おそらくおだやかな性格だったと思われます。先にも上げましたが御厨の言い伝えに忠順は誰にでも気さくに声をかけて話を聞いた。被災民から声を荒げられても決して怒ることはなかった。という話がありますが、それを裏付けるような語句です。 「哲翁」とは賢者の意味と思います。
この戒名は当然伊奈家側から見た忠順の人物像ですが、今なお伝わる御厨の忠順像とよく似ている。
学説はあくまで忠順の施策に成果があったかないかが焦点なのであって、忠順の人格、行動が現地にどう影響を与えたのかは論じていません。ここに、忠順伝説に疑心暗鬼に陥る原因があると思います。切腹したかどうかは不明ですし、ひょっとすると忠順の施策は被災に対してそんなに効果がなかったかもしれません。しかし、一縷の希望になったのだろうと推測します。
多大な制約の中で命を削って民の為に尽くした。見捨てなかった。これが当地の人々の琴線に触れた。これが忠順伝説の真相であり、のちに様々な伝説が出来る素地だったと思います。
伊奈家側の人物像と御厨の言い伝えの奇妙な一致がその証拠です。窮民施米が事実かどうかはではなく、忠順のこのような人柄、努力が御厨の人々の心に残り、励みになり、やがて復興の象徴として不忘の人となった。無形の恩恵であり、記録には残らないが、御厨農民は伝説に留め、伊奈家の人々はその戒名に留めたのだと思います。
伊奈代官36年の支配の意味
学説にあるように復興の原動力になったのは当地の人々の執念としかいいようがありません。また、当地の名主層の能力の高さ(人たちのお上との交渉能力、被害実態や復興に要する労力資力の見積もり能力)が最悪の事態を回避したということは、事実であり誠にもっともだとおもいます。しかし、復興がすべて農民の自力で行われ、伊奈氏の支配が意味がなかったというのは偏った見方だと思います。被災地の苦境は長く続き、復興しても以前の生産力、人口に戻ることはなかったのでそのような見方になるのだと思いますが、忠順没後も被災地は伊奈代官が継承し、その支配に幕府も被災民も一切異を唱えていません。徳川吉宗の代になり、復興に力を入れるようになって、土木事業の実務を伊奈家から紀州閥に代えられても任を解かれていません。それは代官としての責任をきちんと果たしていたからに他なりません。
現代はそういう災害にあったときは手厚く保護をし、また、どこに行っても生活の手段を得ることができますが、当時はそうはいかない、始めに巡検に来た役人から「縁を頼ってどこでも好きに渡世せよ」と言われてもよそ者を保護してくれる村落はありません。つまり、村を出ても過酷な運命が待っており、村に残っても飢え死必死の状況だったのです。
しかし、当地の人々は先祖の土地に生き残った。全滅して廃村になっていてもおかしくない被災地が伊奈代官の35年間の支配を経て、きちんと小田原藩に返され、あるいは駿府代官所に引き継がれている。全滅必死の苦しい時代を村民は生き残って村を守った。そして元の藩領に復帰できるほど回復したということが動かぬ証拠なのです。
もし伊奈代官の支配がなかったらどうだったのだろう。小田原藩は被災地を見捨てて藩領を返し、幕府上層部は政争に忙しく被災地のことなど頭にない。押し付けられた伊奈代官としては普通だったら放り出してもおかしくない。しかし、伊奈代官は投げ出さずに復興を見守っている。誰も見放している中で、唯一被災地を見捨ててないのです。これを小と見るか大と見るか。忠順、忠逵の支配下にあった御厨農民は数多くの嘆願書を伊奈代官所に提出している。これは裏を返せば代官所が耳を傾けてくれる。また、出来うる限りの対応をしてくれるとの信頼があったことの証拠だと思います。そうでなければ、小田原藩の柳田久左衛門のように農民から排斥運動にあっていたことでしょう。
川口市赤山源長寺
正徳2年(1712)2月29日、忠順は後継者を指名することもできずに急死する。亡きがらは源長寺に葬られる。
馬喰町の郡代屋敷跡
浅草橋駅からほど近い。説明版のみで往時を偲ぶものはなにもない。
関東郡代、伊奈半左エ門の名声
関東郡代、半左エ門の名声、信頼というのは伊奈氏がその職にあった間中変わらぬものでした。中山伝馬騒動の時に、数十万の群衆が強訴のために江戸に向かっていったときも、地元の藩の役人が来ても、幕府のどんな役人が来ても話も聞かずに追い返していましたが、伊奈忠宥がこれを承ると出向くと、ぴたりと止まり引き返している。また、上州絹一揆の際にも、高崎城を囲んだ農民たちが突入寸前のところで伊奈半左エ門とだったら話をするといって、伊奈代官所の役人を呼んで和解したというのは有名な話です。
伊奈半左エ門、関東郡代は治水、利水、社会資本整備の功績に目が向きがちですが、その支配にあっても当時、農民たちの高い評価と信頼があったことがわかります。
関東郡代伊奈家はその始祖忠次以来、代々百姓の側に立ち撫民を基とする伝統を受け継いできました。被災地支配にしても忠順、忠逵は、その伝統に従って撫民に努めたことでしょう。それを誇りとしていたし、命がけでその伝統をつくってきた祖先の顔に泥を塗ることはできないのですから。
川口駅東口のビル「キュポ・ラ」1階にある3代忠治の像
「遺徳千秋」御厨と赤山
御厨地方における伊奈家顕彰の流れ
当地では忠順没後200年を記念して上記のような顕彰運動を展開し贈位を成し遂げている。この流れは今も続き、当地での不忘報恩の深さを知ることができる。
駿東郡小山町吉久保水神社にある遺徳千秋の碑
100年前に忠順没後200年を記念して建立された石碑。この頃、御厨地方の忠順を顕彰したグループと川口赤山と交流があったことが文献にある。
渡辺家の伊奈氏欽行の業績
忠順顕彰の中心者、渡辺誠道氏の曽祖父の丹治郎は慶応3年(1867年)有志により小祠(伊奈神社)を建立。誠道氏の祖父久三郎は伊奈家13代(忠行)と親交があった。誠道氏の父丹治は忠順の仁徳略記を草せんとするが大正2年5月19日に病に倒れ、不帰の客となる。誠道氏等御厨地方の有志の贈位の嘆願により忠順の贈位が決まる。誠道氏が忠順、また伊奈氏歴代の事績をまとめた「伊奈氏贈位欽行録」を刊行する。
伊奈氏贈位欽行録とは
渡辺誠道氏が父祖の遺志を継ぎ、贈位にあたり宝永噴火と伊奈忠順の事績と歴代の事績を収集し編纂した記念の刊行物。情報伝達の乏しい当時にあって、可能な限りの資料の収集と調査で宝永噴火の被害と忠順の治績を浮き彫りにした御厨農民の想いの結晶ともいえる一書。刊行に当たり明治大正期の言論界の巨人徳富猪一郎、宮中顧問官の桂潜太郎はじめ様々な方面、地方、階層の人々が資料の提供および寄稿をしている。当時のネットワークの広さと誠道氏はじめ関係者の情熱を垣間見ることができる。表題に「後胤(子孫)忠勝(伊奈家15代)拝書」の揮毫がある。
後胤(子孫)忠勝(伊奈家15代、)拝書との揮毫がある。忠勝は伊奈家改易後、新規千石で取り立てられ、名跡を継いだ忠盈から数えて5代目にあたる。川口赤山源長寺には新規相続以降の4代目忠重までの法名を刻んだ墓石がある。
欽行録に見る赤山との交流
渡辺氏は欽行録の付言に資料の提供またお世話になった人々に謝意を記しているが、その中に「鳩ケ谷町山岡長治氏は伊奈氏の旧家臣の系なるをもって常に伊奈家の為に尽くされ殊に本書に対し幾多の資料を提供せられしを感謝す」とあり、また「神根村尋常小学校校長竹内喜三郎氏は伊奈氏の旧領地にして城址並びに墳墓所在地に就職せられ、つとに事績を研鑽せられしをもってこの挙に対し大いに援助せられしことを深謝す」とあり川口の関係者も協力したことがわかる。
また、渡辺氏は大正5年1月29日に赤山を訪れている。「赤山城の遺跡は埼玉県北足立郡神根村大字赤山にあり、寛永6年忠治創めて築城せり、云々~中略~廃墟後ここに百二十五年。今や雑木隴畝(雑木やうねやあぜ)と化せしも土居塹壕歴々として昔時のおもかげを偲ぶべし」と当時の様子を記している。
改易後、鬱蒼とした雑木林や田畑に変わった城址や、廃寺状態の源長寺を見て回った渡辺氏は時の流れの儚さを想ったことだろう。しかし山王神社にある忠順が建立した八幡宮碑を拝しその人格の一端に触れて感激した様子が記されてある。
昭和十五年発刊の「神根村誌」には山王神社の境内に小山町吉久保水神社にある「遺徳千秋」に碑の碑文が掲げられている。と記されている。おそらく一連の伊奈忠順顕彰運動の中で竹内校長はじめ赤山との交流があり、忠順に所縁のある赤山山王神社に碑文が掲げられたと思われる。
赤山城跡にある山王神社
忠順の父、忠常が建て、のちに忠順が整備した赤山山王神社。かつて境内に吉久保の水神社にある遺徳千秋の碑文があったと神根村誌にある。
山王神社に残る八幡宮碑
忠順が母の願いにより山王神社(当時は八幡宮と言った)の整備を記念して祀った石碑。裏面には「尚、乎(かなわば)神助をもって子孫の繁栄せんことを 領主忠順これを記す。宝永4年11月」と書いてある。奇しくも富士噴火の直前である。
付録 遺徳千秋碑の原文と訳文を掲ぐ
※徳富蘇峰…国民新聞を主宰。明治・大正期における言論界の巨人。当時は貴族院議員。弟は小説家の徳富蘆花。
※徳川家達…徳川家第16代当主。当時は貴族院議長
伊奈半左エ門忠順(ただのぶ)履歴
利根川の東遷
資料:国土交通省 ※画像をクリックするとPDFが開きます
江戸時代の利根川
資料:国土交通省 ※画像をクリックするとPDFが開きます