お女郎縁起考 大宮宿編
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お女郎縁起考 大宮宿編~もう一つの女郎伝説~(pdf)
もう一つの女郎伝説

JR京浜東北線のさいたま新都心駅の東口を降りると、南北に中仙道が通っている。かつてこの辺りが大宮宿の南端で、北に向かって宿場が伸びていた。北に向かうとすぐに武蔵一宮の氷川神社の一の鳥居があり、そこから右斜めに参道が伸びている。寛永5年(1628)伊奈半十郎忠治は中山道を西側に付替えそこを大宮宿とした。大宮宿は日本橋から数えて中仙道の4番目の宿場で、日本橋から約30km、板橋宿からは20kmの距離である。
道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並みは9町30間(約1.04km)。宿内人口1,508人(うち、男679人、女829人)。宿内家数319軒(うち、本陣1軒、脇本陣は9軒で中山道の宿場としては最多である。問屋場4軒、旅籠25軒。他に、紀州鷹場本陣〈北澤家〉1軒あり。(ウィキペディアより) 宿場としては中規模ですが、神社の参拝客も来たろうからかなりの賑わいだったと思われる。

氷川神社一の鳥居。ここから氷川神社の参道が始まる
なぜ大宮宿に来たかというと、ここに気になる伝説があるからです。妙延寺のお女郎につながるかどうかは全く持って僕の想像なのですが、調べてみると興味深い事実があるのです。それは大宮宿の南のはずれ、鴻沼用水に掛かる高台橋にある小さな祠。名を「お女郎地蔵」と言います。

橋のたもとにある祠。右がお女郎地蔵、左が火の玉不動尊

お女郎地蔵、火の玉不動尊の由来
祠の中に由来が書いてあります。それによると、
高台橋のお女郎地蔵
「昔、大宮宿に柳屋という旅籠があり、この柳屋には千鳥、都鳥という姉妹がいて、旅人の相手をしていた。この姉妹は親に捨てられ、宿の人に拾われ育てられてきた。その養い親が長患いで先立ち、借金だけが残っていた。この借金のため姉妹は柳屋に身を沈めたのであった。美しい姉妹は、街道筋の評判となり、男冥利には一夜なりとも仮寝の床を共にしたいと思わぬものはなかった。そんな数ある男の中で、宿場の材木屋の若旦那と姉の千鳥が恋仲になり、末は夫婦にと、固い約束を交わしたが、当時悪名高い大盗賊、神道徳次郎が千鳥を見染め、何が何でも身請けするという話になってしまった。柳屋の主人は材木屋の若旦那のことを知っていたので、返事を一日延ばし、二日延ばしにしていたが、業を煮やした悪党神道徳次郎は、宿に火をつけると凄んできた。千鳥はこれを知って主家に迷惑はかけられず、さりとて徳次郎の言いなりにもなれず、思い余って高台橋から身を投じてしまった。その頃から高台橋辺りに千鳥の人魂が飛ぶようになり、哀れに思った近くの人々が、その霊魂を慰めるために「お女郎地蔵」を建てたのだと言われている。」
大宮宿の女郎宿に千鳥と都鳥という美しい姉妹がいて、材木屋の若旦那と将来を約束していたが、大悪党神道徳次郎に横恋慕され、散々脅された挙句、進退窮まってここ、高台橋から身を投げてしまったという悲運の伝説です。その後高台橋に火の玉が飛ぶようになって、哀れに思った近隣の人々が建てたのがお女郎地蔵です。

お女郎地蔵
妙延寺のお女郎仏と大宮の女郎地蔵。同じ女郎の不幸な話。お女郎仏は事実起こった話ですが、この大宮の女郎伝説はどうなのでしょうか?じつはこの話の中で唯一史実に残っている人物がいます。それは神道徳次郎です。徳次郎は実際にいた大盗賊で、この大宮宿で捕縛され刑場の露となりました。それが寛政元年(1789年)6月7日、石神のお女郎が亡くなる9か月前のことです。
神道徳次郎

神道徳次郎とはいかなる人物か?
真刀 徳次郎(しんとう とくじろう、宝暦11年(1761年) - 寛政元年(1789年)6月は、江戸時代の盗賊。別名、神稲小僧(しんとうこぞう)。名前は真刀とも神稲とも読みますが、徳次郎が題材となった講談は神道徳次郎で呼ばれているので、以下神道徳次郎を使います。
徳次郎がどのような罪を犯していたのか。「幕府届申渡抄録」という記録にはこう書いてあります。
「そのほうは、奥州(東北)、常州(茨城県)、上総(千葉県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、武州(埼玉・東京)の関東筋、そのほか関東近国やその村々数百か所に忍び入り、あるいは強盗を働き、「道中御用」という絵符を建て、刀をたずさえ、野袴を着た者どもを引き連れ、あるいは渡りの盗賊を若党に仕立てて召し連れ、問屋場では相応のご用向きであると申し偽り、あるいは「御用」と書いた提灯を持たせ、提灯にはろうそくを灯し、お寺や修験者の家、百姓家の土蔵、町屋の入り口をこじ開け、押し開け、開け放って、あるいは火縄で錠前部分を焼け切り、脇差を抜刀し、頭取を先頭に押し入り、家の者を縛り置き、「声を建てた者は惨殺す」と言い渡し、金銀・衣服・反物・脇差や、その他の品々を覚えきれぬほど盗み、奪い、これらを部下の常松(22才)、伊勢松(18才)、丈助(19才)、山番人藤八やその他の従者に銘じて、市場や通りがかりの古着屋に売却、質入れさせ、その売却代金を仲間に分配、残金は飲み食い遊興に使い捨て、それのみか出家した人や百姓を惨殺し、あるいは手傷を負わせた。その他さまざまな悪事を行い、この数百か所に及ぶ夜盗の所業、重々不届きにつき、町中引き回しのうえ、武州大宮宿において獄門執行を申し渡す。」
徳次郎一党は関東及び東北あたりまで数百か所で強盗を働き、金銀を盗み、あらゆる物品を売り捌き、それで得た金を仲間に分配し、残った金で豪遊していたという。また、役人に変装し、御用であると称し、関所や問屋場をすり抜けて、捕吏の追捕を逃れていたようです。そしてまた、僧や百姓を惨殺したり、けがを負わせたりと、誠に傍若無人、凶悪至極、大胆不敵、神出鬼没の公儀を恐れぬ広域盗賊団だったということです。関東の民は彼らのせいで恐怖のどん底に落とされたのは言うまでもありません。
そもそもこの天明年間(1781年から1789年)とは異常気象、浅間山の大噴火で農作物に壊滅的な被害が生じ、江戸時代最悪の飢饉になりました。特に東北・関東の被害は甚大で、餓死するものが相次ぎ、江戸に流民が押し寄せるなど治安も最悪な状況になりました。以前にも述べましたが、この時期関東の隅々まで影響力のあった伊奈家の内紛による機能不全、田沼意次と松平定信の熾烈な権力争いにより一時的に見直の空白が生じたことが治安悪化に拍車をかけたのですが、むしろそれ以前から、幕府開府以来約200年がたち、農業を中心とする単純な経済構造から、商品経済、貨幣経済が農村にまで浸透し、貧富の差が生じ、没落する百姓が徐々に増えてきたことが背景にあります。幕府の改革のほとんどは帰農政策、農村復興だったことがそれを物語っています。しかし、社会が安定すれば商品経済、貨幣経済が発達することは止めようがなく、幕府も大名もその流れに飲まれて、この頃には武士の誰もが借金まみれとなって、その権威が失墜しつつあったのです。
徳次郎一党は二十歳前後の不良たちを中心とした犯罪集団で、大荒れの時代に現れたあだ花というべき存在です。多感な時期に飢饉を生き抜き、江戸の打ち壊しや絹一揆などの民衆暴動を目の当たりにしてきたので、おのずからすさんだ生き方になってしまったのだと思います。そんな彼らが頭目と仰いだ徳次郎も28才。神道流という剣術の達人だったといいます。腕っぷしもさることながら、犯罪の手口、役人に化けて追捕をかわすなど、不敵で巧妙です。また、金品は仲間に分けるなど人心掌握も心得ていたことがうかがえます。一説によると数十人の部下の他にかかわりのあった手下は数百人いたといいますから、まさに若いアウトローたちのカリスマ的存在だったのです。
しかし、彼らは前述のように寛政元年(1789年)4月、大宮宿で彼ら一味の隠れ家になっていた四恩寺の閻魔堂に居るところを一網打尽にされています。捕らえたのは誰あろう火付盗賊改方長官、長谷川平蔵宣以(のぶため)。そう、あの鬼平だったのです。
*参考資料・文献 国立国会図書館デジタルコレクション「神道徳次郎」、新人物往来社 「鬼平 長谷川平蔵の生涯」重松一義、フジテレビ番組HP
鬼平、長谷川平蔵宣以

コミック版鬼平犯科帳(リイド社)さいとう・プロダクション公式サイトより
巨盗、神道徳次郎を捕らえた長谷川平蔵ですが、鬼平犯科帳のイメージが強すぎて、その経歴を知る人は少ないかもしれません。
長谷川平蔵経歴
延享2年(1745) 旗本長谷川宣雄の嫡男として生まれる。
明和5年(1768)23歳 将軍家治の御目見え。
安永元年(1772)29歳 父宣雄が京都西町奉行に就任し、平蔵も妻子とともに赴く。
安永2年(1773)30歳 父死去のため家督を相続する。
安永3年(1774)31歳 西の丸御書院番士。
天明4年(1784)39歳 西の丸御書院番徒歩頭。
天明6年(1786)41歳 御先手組弓頭
天明7年(1787)42歳 御先手組弓頭加役の火付盗賊改方長官に就任
寛政元年(1789)44歳 神道徳次郎一味を捕縛。(4月)
老中・松平定信に石川島人足寄場設置を建言。
寛政2年(1790) 加役人足寄場取扱を拝命。(2月)
寛政3年(1791)46歳 葵小僧を逮捕。
寛政7年(1795)50歳 5月19日死去。
(Wikipediaより)
鬼平犯科帳でお馴染みのように、平蔵は若いころは名うての不良で「本所の鐵(てつ)」呼ばれと恐れられていました。また、父がせっせと貯めた財産を遊郭通いや派手な生活で使い果たすなど、放蕩無頼の青年時代を過ごしました。しかし、経歴を見ると順調に出世を遂げており、41歳で武官の最高位である御先手組弓頭(おさきてぐみゆみがしら)に任ぜられていることから非常に優秀な人だったことがわかります。そして火付盗賊改長官を兼務(加役)すると、神道徳次郎や葵小僧といった大物の盗賊、凶賊を次々召し捕りました。また、的確で人情味あふれる仕事ぶりは庶民から非常に人気がありました。
永代橋から見る佃島リバーシティ。かつて人足寄場はここにありました。
石川島人足寄場
そして意外なことですが、民生官でもない平蔵が無宿人たちのために石川島に人足寄場を設立しています。当時無宿人と言えば犯罪者予備軍扱いで、佐渡金山に送られて過酷な労役に従事させられることになっていましたが、平蔵の人足寄場はこれら無宿人を更生・社会復帰させるための施設で、職業訓練や労務に対する級金の支給、そしてそれを貯金させ更生資金に充てさせるなど、当時としては異例の手厚い更生施設でした。悪事は決して許さないが、犯罪者とならざるを得ない彼ら境遇には同情していたということでしょう。平蔵の人となりを示す事実です。
また一面、この人足寄場を設立するにあたって老中松平定信が資金をケチったため、運営資金が不足すると、平蔵は幕府から資金を借りて銭相場に突っ込んで、その利益を運営費に充てました。当時も今も公金をこのように勝手に運用することは許されないことですが、金を出し惜しみした手前、松平定信もしぶしぶ了承していたようです。しかし、潔癖症の定信は平蔵を嫌っていたらしく「山師などと言われ兎角の評判のある人物」と評していたそうです。しかし、いざというときにはその辣腕を発揮して型にとらわれず結果を出すというところも平蔵の人となりで、当時の形式主義、前例主義の武士たちとは一線を画しているところです。
火付盗賊改めとは?
さて、平蔵といえば鬼の平蔵、悪党どもを震え上がらせた火付盗賊改のお頭としての立場がイメージとして定着していますが、火付盗賊改めというのはどのような職だったのか調べてみますと、火付(放火)、盗賊(強盗団)といった凶悪犯罪専門の取締官で、代々御先手組頭が兼務しています。江戸の治安は町奉行所が取り締まっていたのですが、彼らはあくまで警察官。コソ泥や殺人犯を捕まえることもあれば、民事訴訟を裁くこともある民生官でした。対して火盗改めは御先手組頭が兼務する役職と言いましたが、この御先手組というのは幕府の常備軍、しかも先陣を切る最精鋭部隊のことを言います。つまり超エリートの軍組織なのです。江戸時代も中期になると凶悪で広域、しかも武装した組織犯罪が増えてきました。それらは往々にして証拠隠滅のために放火することが多かったので、町奉行では対処しきれなくなってきました。火盗改めはそれに対応するために作られた組織だったのです。おのずと捜査や取り調べが荒っぽくなり、幕府内や庶民から嫌われたりもしました。
平蔵がそれまでの火盗改め以上にばんばんと凶悪犯を検挙できた理由としては、頭脳明晰、剛毅果断な性格と能力の他、本所の鐵として恐れられていた若いころの経験が大きかったと思います。そのおかげで庶民の生活や世情に明るかったこと。また、犯罪事情に精通していたことが大きく寄与しています。そして、このことが捜査に不可欠な優秀な目明し(密偵)を多く召し抱えることができた理由でした。鬼平犯科帳では五郎蔵やおまさといった人たちですが、目明しの素性は元犯罪者であることが多く、犯罪者だったが故、その筋の情報に明るく、また情報ネットワークを持っていました。優秀な目明しがいればいるほど検挙率が上がったのです。ただ、人足寄場の資金稼といい、身分卑しき目明しを多数召し抱えたことといい、このようなやり方は同僚や幕閣からは不興を買っていたようで、これ以降出世からは遠ざかったようでした。
この長谷川平蔵がなぜ北関東を荒らし回っていた神道徳次郎を捕縛出来たのでしょうか?それには大宮宿の女郎の千鳥の事件が大きく関わっていると思うのです。
*参考資料・文献「鬼平 長谷川平蔵の生涯」重松一義、さいとう・プロダクション公式サイト、Wikipedia
神道徳次郎と大宮宿
広域盗賊団の神道徳次郎一味は大宮宿に隠れ家を構えていた。関東中で強盗を働いていた徳次郎達だから他にも隠れ家があったのかもしれませんが、唯一判明しているのが大宮宿なので、ここを拠点として数々の悪事を働いていたのでしょう。その隠れ家が四恩寺というお寺で今も残っています。
徳次郎達はなぜ大宮宿を隠れ家にしたのでしょうか?考えられるのが、徳次郎は盗んだ物品を部下に売り捌かせていたので、売り捌くには巨大市場である江戸が最も適しています。大宮宿は中仙道の4番目の宿場で、板橋宿へは20km、日本橋へは30kmと売り捌きに行くには程よい距離です。また、江戸では様々な情報が集まるので、関東を荒らし回っている自分たちへの噂や幕府の動向なども部下に探らせていたのだと思います。これだけ派手に犯行を重ねているので、いつか幕府が本腰を入れて自分たちを捕まえに来ることも当然予想していたはずです。徳次郎が賢いのは関東の村々は襲っても、江戸では犯行をしていないところです。江戸府内で犯行をすればお上が黙っていないと考えていたのでしょう。半面村々や街道筋の宿場に対しては舐めていたようで、見境なく町屋や村を襲ったり、役人を装って関所を通過したり、宿場でも役人に対し御用であるとうそぶくなど、ふてぶてしい態度を取っています。そんな徳次郎にとっては大宮宿の役人など何とも思っていなかったに違いないのです。
徳次郎と千鳥
そんな徳次郎ですが、一応は宿場の人々に正体がばれないように商人と偽って盗んだ金で豪遊していたので、大宮宿の人々はガラは悪いが大身の商人の若旦那とでも思っていたのでしょう。しかし柳屋の女郎千鳥を見染ると、次第にその本性を現していきます。柳屋の主人にいくらでも金を積むといって千鳥の身請けを迫ると、返事を先延ばしする柳屋に業を煮やし、数々の嫌がらせをします。店の前に手下を張らせ来る客に喧嘩を吹っ掛ける。店の入り口に閻魔像を置く。あげくに店に火をつけると脅したのです。
冷静に考えれば、そんな目立つことをすれば、宿場の人々の噂になり正体が露見するとも限りません。また、身請けしたところで盗人であることが千鳥に知られれば役所に駆け込まれる恐れもあります。どう考えてもうまくいくはずがありません。大盗賊の頭目ともあろう者がそれをわからないはずがなく、にもかかわらずこのように尋常ならざる行為を繰り返したのはなぜなのか?女郎一人などどうにでもなると驕ったのか?宿場の連中など何もできないとタカをくくっていたのか?あるいは大盗賊のプライドなのか?そうではなく、僕は徳次郎が本気で千鳥に惚れてしまったのだと思います。身の危険も顧みず物狂いする姿は、恋に焦がれる一人の若者に見えます。おそらく徳次郎は大盗賊の頭目の用心も自制心も吹き飛ぶほどの激しい激情に駆られてしまったのだと思います。
柳屋と千鳥の実像
では徳次郎がこれほどまでに恋焦がれた千鳥とはどんな女性だったのか?
街道一の美貌、男なら一夜でも仮寝の共をしたいと思うほどの人気、今でいえばトップアイドルのようなもので、大宮宿にとっては宿場の評判を上げてくれる貴重な存在でした。しかし、千鳥とその妹の都鳥は所詮哀れな女郎。借金の方に売られ、返済が済むまで馬車馬のように働かされる身分です。女郎、宿場女郎は別名飯盛女(めしもりおんな)と言います。
*飯盛女とは?
江戸時代、五街道をはじめ各街道の宿場には旅人を泊める旅籠がたくさんありました。時代が下るにつれ交通量が増えると、宿場間で客の取り合いとなり、旅人の夜の相手を務める女郎を置くようになりました。この女郎のことを飯盛女と言い、飯盛女のいる旅籠を飯盛旅籠といいました。飯盛女は読んで字のごとく旅人の給仕をする女性ですが実態は女郎です。なぜこんな呼び名になったのかというと、お上をごまかすためなのです。
幕府は宿場の風紀を正すため、宿場での女郎の数を厳しく制限しました。例外はありますが飯盛旅籠一件につき2名が基本でした。しかし宿場にとっては女郎の数が宿場の繁栄、引いては財政も左右することから何人でも女郎は欲しい。そこで女郎を飯盛女(給仕係)と偽って置いていたのです。ですから飯盛女といえば女郎なのです。なぜそこまで女郎が重要だったかというと、当時の旅が公用であれ私用であれ、旅は男性がするものだったからです。女性は「入り鉄砲出女」と言われるように、幕府は女性が関所を越える際に厳しくチェックするなどして結果的に女性の旅をしにくくさせていたからです。女性が男性並みに旅をするようになったのは江戸時代も後期になってからの話です。
千鳥と都鳥が女郎だったと言っても、伝説に描かれている様子からは不幸な女郎というイメージはあまりありません。2人は幼いころに親に捨てられ、宿場の人に育てられ、その養親が死んで残した借金のために柳屋に買われたことになっています。しかし、元々柳屋に拾われ育てられ、柳屋の主人が病弱だったため借金がかさみ、自ら進んで女郎になったという説もあります。どちらも似たような話ですが、流されるままに女郎になったのと自ら進んで女郎になったのでは大きく違います。どちらが正しいのでしょうか?
女郎となった姉妹はたちまち評判となりました。柳屋の主人としては、これから稼げる限り稼いでもらいたいと思うのが常識ですが、彼は材木屋の若旦那との交際と婚約をあっさり認めてしまっています。また、徳次郎が横恋慕し、再三脅迫を受けても千鳥を守ろうとしています。借金の方に取った女郎なら、金さえ積めば悪党だろうと何だろうと引き渡してしまってもおかしくはないのに、それを言を左右にして引き延ばしています。やはりこれは柳屋自身が姉妹の育ての親だったのではないでしょうか?柳屋は幼い姉妹を引き取って育てた。しかし彼は病弱なために借金がかさんでしまった。姉妹は育ててもらった恩を返すために自ら進んで女郎となった。こんな関係が浮かんできます。
柳屋にとって姉妹は実の娘も一緒。姉妹にとって柳屋は実の親も一緒。お互いどんなことをしても助けたかったに違いありません。柳屋は千鳥を幸せにしてあげたかった。材木屋の若旦那と一緒にさせてあげたかった。そんな千鳥をなかば殺されたような形で失ってしまったのです。悲しみはいかばかりだったでしょう。また、婚約者を失った若旦那もしかりです。そしてそれは大宮宿の人々にとっても同様だったのではないでしょうか?
千鳥の自害は大宮宿の人々に大きな衝撃と悲しみをもたらし、やがてそれは恨みとなって徳次郎に向けられることになり、徳次郎の横恋慕は盗賊団の壊滅と人生の終焉へとつながっていったのです。
徳次郎の捕縛は大宮宿の人々の密告?
火盗改めの長谷川平蔵がなぜ徳次郎一味を捕縛できたのでしょうか?また、江戸にいる平蔵がなぜ広域犯罪集団の徳次郎一味が大宮宿にいるとわかったのでしょうか?火盗改めの長谷川平蔵と巨賊の神道徳次郎。この時代の悪と正義を代表する二人を巡り合わせたのは何だったのでしょうか?それは大宮宿での傍若無人の振る舞い、中でも女郎千歳の入水事件だったのではないでしょうか?
大宮宿の人々や代官は徳次郎自身が千鳥を殺害したのではないので、その下手人として裁くことはできません。しかし、何かの犯罪に手を染めているはずだと怪しんでいた。そこで徳次郎一味を徹底的に調べたと思われます。罪状にある百姓や僧侶を惨殺したというのは、徳次郎一味の悪行を調べた結果出てきた事実だったと思います。また、徳次郎一味の正体が関東中で暴れ回っている盗賊団だということも突き止めたのだと思います。そうでなければ火付盗賊改めの長谷川平蔵がわざわざ大宮宿まで捕まえに来ることはないのです。宿役人や代官では手に負えない凶悪な広域犯罪集団だとわかったからこそ、平蔵に密告したというのがつじつまの合う流れだと思います。
以前にも述べましたが、当時幕府には大名領や旗本領といった私領、寺社領を越えて捜査や逮捕する権限はありませんでした。ですから犯罪者に私領に逃げ込まれればそれ以上折っていくことができなかったのです。まして関東は私領公領が入り乱れた土地なので江戸時代の後期には盗賊が跋扈し、ヤクザが町を支配し、ヤクザ同士が抗争を繰り返すというような無法地帯になってしまいました。事態を憂慮した幕府はこの後、関八州取締出役という、どこでも捜査権、逮捕権のある取締り組織を創設します。しかし徳次郎達が暴れ回っていた段階では、このような権限を持つ組織は火付盗賊改めしかなかったのです。実際に平蔵は江戸に限らず各地に出向いて凶悪犯を捕まえています。大宮宿の人々や支配代官が徳次郎達を直接捕まえようとしなかったのは、徳次郎達が凶悪で広域犯罪集団のため、自分たちでは太刀打ち出来ない連中だと判明したからだと思います。
捕縛、そして獄門
一方平蔵の方でもこういう大物凶悪犯を捕まえたい事情がありました。彼は天明7年(1787)御先手組弓頭加役の火付盗賊改方長官に就任しましたが、昔放蕩だったこともあり、同じ旗本たちからは極めて評判が悪く、「なんであいつに?」とやっかまれていました。また先に述べた通り、彼は極悪人を取り締まりながらも、犯罪を犯さざるを得ない状況に理解を示し、老中松平定信が構想中であった「人足寄場」の設置の建議書の提出を考えていました。これが認められれば火盗改めに加え人足寄場の取り扱いも加役されるので、ますます嫉妬されるのは明らかでした。よって彼の立場を補強するためにも、自分がそれにふさわしい人物と証明するためにも大きな実績を必要としていたのです。そこにもたらされたのが神道徳次郎の大宮宿潜伏情報だったのです。
寛政元年(1789)当時、関東を荒らし回る盗賊団がいるらしいことは、当然火盗改めの平蔵の耳には入っていたと思われますが、その実態や首謀者については知る由もなかったと思います。なにせ当時は天明の大飢饉後で、関東は無法状態で強盗事件が頻発していました。前にも述べましたが、広域犯罪のそれを取り締まれるのは関東郡代伊奈家と火盗改めしかなかったので、伊奈家が家中騒動で機能不全に陥っている状態では実態を掴みようがなかったのです。伊奈家も家中騒動が起きる前は、家臣の杉浦五郎右衛門が天明6年(1786)に上州(群馬県)悪党取り締まりに出役している記録があるので、彼らが健在だったならばその任に当たっていたでしょう。彼らの機能不全でいよいよ犯罪者が跋扈することとなり、収拾不能のカオス状態となり、誰にも徳次郎一党の実態を把握することは出来なかったことでしょう。そんな時広域強盗団の容疑者が大宮宿に潜伏しているとの情報が入ったのです。
大宮宿の人々が、どのような情報を上げていたかはわかりませんが、関東各地で強盗をして盗んだものを売りさばいたり、役人に変装し、御用であると称し、関所や問屋場をすり抜けて、捕吏の追捕を逃れていたりと、広域強盗団である証拠や証言をつかんでいたのではないでしょうか?何故なら火盗改め長官に密告するからには、それなりの証拠が必要だからです。単にコソ泥の情報を持って行っても「おまえらで捕まえろよ」と言われるのがオチだからです。
火付け盗賊改め長官長谷川平蔵は大宮宿の人々からもたらされた情報に大いに興味を持ち、すぐに密偵に調査させたはずです。もっとも火盗改めの調べは、疑わしければしょっ引いて拷問に掛けてもよいので、まどろっこしい手順は不要だったかもしれませんが。
高台橋
かくて寛政元年(1789)4月、神道徳次郎と幹部3名は、大宮宿四恩寺の閻魔堂に居るところを鬼平長谷川平蔵の手によってお縄となり、江戸へ送られて斬首されました。そして平蔵はこの一件で大いに勇名を馳せることになったのです。その後どうなったかというと、前述の蕨宿名主岡田茂右衛門の「善休日記」の寛政元年(1789)6月7日に以下のように書かれています。
6月7日
「この昼過ぎ江戸より宿継人足にて首4つ通る。これは御代官飯塚常之丞様御支配所、大宮宿へ足軽衆4人付き添いて高札を4枚掲げつつ、さすまた前後に持たせ、浦和宿へ継送る。~中略~ 彼の宿(大宮宿)の前、字高台と申すところ、土橋の淵、獄門にさらすとなり、その内一つの首は字神通(道)徳次郎と云いり」
この4つの首は「幕府届申渡抄録」にある通り、神道徳次郎、幹部の常松(22才)、伊勢松(18才)、丈助(19才)、山番人藤八と思われますが、江戸で斬首された後、物々しい警備の元、大宮宿へ送られました。大宮宿には現在のさいたま新都心駅東口辺りに「下原刑場」という処刑場があったのですが、ここでは主に武蔵国の罪人が処刑されたと言います。神道徳次郎等は下原刑場で斬首されずに江戸で首を斬られた後、わざわざ大宮宿まで運ばれ、その手前の高台橋の淵(端?)で獄門(首をさらし者にする)にされました。高台橋と言えば女郎千鳥が入水自殺したまさにその場所です。何故わざわざ江戸から首を運んで高台橋に晒したのか?それは大宮宿の人々の復讐心と、なにより死んだ千鳥に報いるための鬼平の計らいだったのではないでしょうか?僕はこのことから大宮宿お女郎地蔵の伝説は事実あったことで、女郎千鳥は実在したのではないかと思っています。
千鳥の妹、都鳥=女郎仏?
お女郎地蔵の伝説には女郎千鳥、神道徳次郎の他に柳屋の主人、材木屋の若旦那、千鳥の妹都鳥が出て来ますが、その後の彼らの事は描かれていません。病弱な柳屋の主人は、婚約者を亡くした若旦那はどうなったか?唯一の肉親を失った都鳥は?彼らの喪失感やその傷が癒えることはなかったことでしょう。しかし柳屋にとって都鳥は残された大切な娘、若旦那にとって都鳥は恋人の忘れ形見、そして都鳥にとって二人は姉を愛してくれた大切な人であるので、互いに助け合ってその後を生きたと願わずにはいられません。
しかし悪い想像をしますと彼らは離れ離れになったかもしれません。それは一連の騒動の後、彼らの身の安全が確保されたかわからないからです。それは神道徳次郎および幹部が処刑されたとはいえ、彼の手下は何十人もいたと言いますから、その中に事件にかかわった人々に対する報復を考える輩がいたとしても不思議ではないからです。実際にその後鬼平が麹町で捕まえた盗賊が徳次郎の手下だったことが記録に残っています。(よしの冊子―老中松平定信の家臣がまとめた風聞書)
このような状況に大宮宿の人々、特に柳屋主人や材木屋の若旦那は危惧を覚えたに違いありません。柳屋と材木屋はそれぞれ店を構えているので逃げるわけにはいかないし、それなりに覚悟は持っていたことでしょう。彼らの危惧は千鳥の妹、都鳥が狙われることです。残党が彼女を狙うことは十分に考えられることです。彼女だけは何としても守らなければならない。大宮宿にいては危ない、どこかに身を隠すべきだ。そう考えてほとぼりが冷めるまで知人縁者に預けたかもしれません。その都鳥が石神村の女郎仏で、都鳥の匿い先が江戸の何処かで、そこから大宮に帰ろうとして石神村で遭難したのではないか?というのが私の結論です。
さて、長々と述べてきた2つの女郎伝説の考察ですが、多少裏付けとなる記録が出て来ましたが、確実な証拠があるはずもありません。あくまで僕の想像です。ですから別紙で述べるストーリーも僕の創作ですのでそのつもりで読んでください。原稿を終えるまで長いこと掛かってしまった事は僕の反省するところです。楽しみにしてくださった方々、待たせてしまって申し訳ありませんでした。近日公開の別項「小説 お女郎縁起」をお楽しみください。
最後に妙延寺にあったという和讃を掲載します。(小冊子女郎仏より)
和讃
帰命頂礼 女郎尊
年は寛政戌の春、頃は弥生の花なれど
歩みもならぬこの病、如何なる時節が巡り来て
誰かに引かれて我が郷へ、行かんとすれば戻り橋
鳥も通わぬ土手山へ、捨てたる輩は鬼神なり
一人最後の悲しさに、娑婆も世界もうち捨てて
未来を頼む阿弥陀仏、後生枯れ木の疲れざし
遂に菩提の塔婆なり、数多の人に帰依されて
しんがさくじょと拝まれる、南無阿弥陀仏阿弥陀仏
2024.2.15了
おおと
大宮宿編の前の話
お女郎縁起考 お女郎の旅路編