80年の時を経た、神根駅
武州鉄道は、1924年(大正13年)から1938年(昭和13年)にかけて埼玉県を拠点に、同県南埼玉郡綾瀬村蓮田(現・蓮田市)の蓮田駅(JR東北本線(宇都宮線))から同郡岩槻町(さいたま市岩槻区)を通って同県北足立郡神根村石神(現・川口市)の神根駅まで16.9キロメートルを結んで運行されていた鉄道です。
運営する武州鉄道株式会社は,明治44年の設立当初は中央軽便電気鉄道株式会社と称していました。
資金繰りなどの理由で計画どおり路線がすすまなかったこと、また短命であったことから、「幻の鉄道」あるいは「悲運の鉄道」とも呼ばれています。
■普通運賃 三銭一厘一毛(一キロ当たり)
駅一覧(14駅)
蓮田駅 - 馬込駅 - 河合駅 - 岩槻北口駅 - 岩槻本通駅 - 岩槻駅 - 真福寺駅 - 浮谷駅 - 笹久保駅 - 武州野田駅 - 武州大門駅 - 下大門駅 - 行衛駅 - 神根駅
武州大門・神根間の開通
武州大門から神根の延長は資金と時間の無さから、むちゃくちゃな延長線開設でした。
神根駅付近の土木工事や小川の架橋に手間取り、昼夜をとわず工事を行い、夜の工事では発電機の音が一晩中続いたり、アーク燈が厳冬の鉄道道を照らし、沿線の住民は眠れない日々を過ごしたそうです。
昭和11年12月31日、武州大門、神根間運輸営業開始が許可され昭和12年1月6日には鉄道省係員の監査を終わり、営業運転を始めました。
神根の駅は乗降ホーム二本、貨物積卸ホーム、駅舎本屋、便所、貨物上屋、転車台、井戸水槽などが設置されていました。
それらは皆他の駅からの貰い物であったといいます。
神根駅は武州大門駅に比べても寂しく、木立ばかりで周囲には何もない。
駅の主屋の前に御成道が作られ、ホームの向こうには水田が開けている。鳩ヶ谷の市街には少し遠く、田畑の中の終着駅だったそうです。
せっかくの神根駅でしたが、わずか2年の営業で廃線となってしまいます。
「鳩ヶ谷バス等ありて、差したる影響を及ぼさざるものと認め・・・」と埼玉県からの意見書が当時の武州鉄道の所在を言い表しています。
何の必要も無い鉄道だといわれていました。
慢性的な赤字体質だった武州鉄道は昭和13年に倒産してしまうのですが、もし現在武州鉄道が存在していたら、準大手私鉄の仲間入りくらいは
果たしていただろうとも言われています。きっとこのあたりでも重要な路線となり地域の風景も変わっていたことでしょう。
戦後になり神根停車場から綾瀬川橋梁の手前までの直線部分を埼玉県を経て国が買取り、神根から先も収用して鳩ヶ谷市街地の南端でお成り街道と繋いで国道122号線をバイパス路とし、その後道幅を拡張して東北自動車道になりました。
そして時を経て埼玉高速鉄道が大門のあたりと神根のあたりを結び、武州鉄道と似た路線となり、容易に都内へとアクセスできるようになることに。
廃線から既に80年以上が経過し,地元の人でもこの鉄道の存在を知っている人は少なくなってしまっています。
今でも僅かながら残る鉄道配線跡地、畦道をコトコトと機関車が走り神根駅にたどり着く武州鉄道を想像すると懐かしい風景が見えてきます。
発起人総代 内田三左衛門
蓮根村の内田三左衛門
中央鉄道発起のリーダーシップを執ったのは、汗にまみれて荒川を越えてきた男であった。
安行村や浦寺村、鳩ヶ谷町の発起人の家に立ち寄り、発起から手を引かないよう説得したり、川口町荒川縁善光寺に寄り、住職に「中央軽便電気鉄道株式会社発起人総会」のために本堂を借りる段取りをしたりした。
農業の傍ら醤油の醸造も手掛けていた。
蓮田・岩槻間の開通式
蓮田・岩槻開通式での記念撮影
中村金平 飯野喜四郎 岡田徳輔 橋本喜平 本多貞次郎 若尾音造 平澤三郎 駒崎幸右衛門
大正13年10月19日
客車を引いた機関車は白い煙を噴出して、何度も折り返し満員の客を岩槻まで運んだ。
※神根駅があったのは、現在の122号線の石神、交番とセブンイレブンの周辺です。
神根駅と武州鉄道の存在を知らない人たちにも、記憶していただきたくこのページをつくりました。
今後も追って記述していきたいとおもいます。
参考資料:武州鉄道 風間進