連載!お女郎縁起考


 新井宿まちづくりブログにて連載中の「お女郎縁起考」を転載していきます。最新話はブログで、それまでの話はここでご覧ください。月イチで更新していきます。では。

お女郎縁起考

 神根、安行、鳩ケ谷にはいろんな伝承、伝説があります。仏教説話的なものや現実離れした話もありますが、中にはこれは事実に基づいた話ではないか?という伝承・伝説があります。昔、人々に強く記憶される事件や事故があった。それが語り継がれるうちに脚色されていったのではないかと思えます。
中でもお女郎仏は実際にあった事件でありながら、主人公の女郎について当時も今も全く分からないという不思議な話です。寛政2年(1790年)石神の土手山という林の中で若い娘が行倒れていた。村人の介抱にもかかわらず娘は5日後に息を引き取った。うわごとを言って村人の問いかけにも応えられず、身元を示すものは一切なく、しかし、あまりにも美しい容姿から「女郎」ではないか?とか、大奥女中ではないか?はてはとある大名家の御落胤ではないか?などと、さまざま噂されました。
はたしてこのお女郎、何者だったのか?この連載ではお女郎の正体、どこから来てどこに行こうとしたのか?なぜここで行倒れてしまったのか?これを推測し仮説を立てて参ります。ほとんど何の手がかりもないので、すべてが僕の想像にすぎないのですが、巷間伝わる「お女郎様」ではなく、そこに生きた一人の娘として血肉を通わせようと思います。その時代の空気、親兄弟、生活した場所、そして感じたことなどを再現してみたいです。
 じつは、このお女郎のことを小説をしてみようと思っています。なかなか忙しくて筆が進みませんが、その執筆の中で思ったことをこの連載で書いていきます。その小説の題が「お女郎縁起」なので、「お女郎縁起考」というわけです。では、今後をご期待ください。
写真はそのお女郎の石神「妙延寺」です。

お女郎仏の由来

お女郎の由来についておさらいしてみます。
妙延寺の冊子には女郎仏の由来が載っています。
 寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり、石井家は当時村長を勤めていたので、翌朝官林(土手山)の見回りに行った処、山の中から若い女のすすり泣く声が聞えてくるので行って見ると、十八,九歳くらいの気品の高い女性が病に倒れて苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが病重く言葉も絶え絶え、手掛かりになる所持品もなく、どこの者ともわからず、窮して林家の杉山さんと相談の結果、庚申塚に仮小屋をつくり、そこに運んで医師を招き治療を受け手厚く看護したが、薬石効なく遂に同月六日午前十時不帰の客となってしまった。やむを得ず近隣の者と相図り庚申塚に懇ろに弔った。
 以上は石井栄松氏の手記によるもので他にもその女人は由緒ある身分の方ではないだろうかとか、越後新発田藩主の落胤で故あって江戸から国許に帰る途中不慮の災厄にあったのだろうと穿ったような別説も伝わっているがいずれも立証する何ものは残っていない。
女郎仏とはその女性があまりにも美しく可憐な乙女であり、身分を明かさなかったのでもしや女郎ではなかったかとの憶測から生じたものではないかと思われる。
 と、このように日時、場所、経過が明確に記録されています。しかしながら当時も今もこのお女郎が何者で、どこからどこに行こうとしたのかという事情に関しては一切不明になっています。真実にたどり着くはずもありませんが、お女郎の人物像、また、事情について推理していきたいと思います。まず、いくつか疑問点整理してみます。写真はお女郎を葬った庚申塚。

お女郎の人物像

お女郎の謎を整理すると。
1、 お女郎が何者なのか?
2、 どこから来てどこに行こうとしたのか?
3、 どうして行倒れになったのか?
の3つになります。
 まず何よりお女郎が何者なのか?というのが最大の疑問です。わかっているのは18,9歳ぐらいの美しい娘というだけであって身分やどこの生まれかもわからない。当時は服装や髪形、言葉づかいである程度その人の出自がわかりました。たとえば髷は武士と町人百姓ではっきり違いますし、服装も身分や年齢で違います。若い女性の場合髪は武家なら気品のある高島田、町人は結綿など。着物は武家なら絹や紬が使え、町人は木綿、百姓だと麻か木綿しか許されなかった。さらに未婚の場合振袖を着ていて既婚女性は着なかった。など。
 このように身なりや髪形である程度出自の見当がつきます。また、言葉づかいにも武家と商人と百姓、上流階級か民かでも違っていました。加えてお国訛りもあります。しかしお女郎ではその辺の記述がありません。発見時の服装や髪形などからは判別できなかったものと思われます。これらのことから少なくとも上級武家の娘には見えなかったのではないでしょうか?このお女郎が越後新発田藩藩主の御落胤という巷説は想像しにくく、ごくありふれた身なりの女性像が浮かび上がってきます。しかし、見た人に印象に残るほど美しく品のある顔立ちだったために「女郎ではないか?」「上臈:じょうろう(身分の高い女中)ではないか?」などの憶測を呼ぶことになったのだと思います。写真は日曜ドラマ仁の旗本の娘橘咲役の綾瀬はるか。
赤山役所の検分

 このように何の手がかりもないお女郎。しかし、石神村は赤山領(関東郡代伊奈氏の領地)。領民が赤山役所と呼んだ陣屋のお膝元です。領内、支配地での行倒れ者、変死者の調査は代官の仕事ですので、当然赤山役所の役人が検分に来ているはずです。

 役人は死者の身体的特徴、身なり、発見時の状況などを書きまとめ、これを近在の村々に御触れ出します。これらのことは伝説にはないのですが、当然このような手続きがとられたことでしょう。しかし該当者はなかった。当時の役人がこういう案件にどこまで捜査するのかわかりませんが、江戸時代は百姓や町人など庶民への支配は連帯責任や相互監視などの法律で徹底的に行われていたので、領民・支配民のことはかなり細かく把握していました。江戸時代に犯罪率が低かったのはこの支配制度によるのです。しかし、一歩他領や寺社地に足を踏み入れるとその捜査権が及びません。この天明・寛政のころは大飢饉や打ち壊しなど不穏な社会情勢になり関東各地で盗賊団が跋扈するなど大荒れの時代でした。役人が犯罪者を追い回しても他領に逃げ込まれてしまい検挙率が大幅に低下しました。これがのちに八州回りと呼ばれる関東取締出役という私領、公領にとらわれない捜査権を持つ機関の設立につながっていきます。写真は赤山城跡碑

越後新発田藩(えちごしばたはん)

 話はそれましたが、伊奈家の調べで該当者なしとなれば他の大名・旗本領あるいは寺社領。そして江戸町奉行の管轄下の人間になります。無宿人は町奉行も把握していませんがお女郎はあたらないでしょう。赤山役所、また、当時の役人がこういう事案で他の役所と連携して捜査したかはわかりません。代官所も町奉行所も激務なので普通に考えればやらないでしょう。特に当時の伊奈家は改易の原因になった家中の内紛で機能不全に陥っていたので、検分に来て終りだったということも十分考えられます。関東の治安が悪化した原因は天明の大飢饉という天災が大きいですが、田沼意次と松平定信の権力争いによる権力の空白と伊奈家の混乱により一時的に治安能力が低下したことも大きかったのではないでしょうか。

 ただ、ここで気になるのが先程の「越後新発田藩藩主の御落胤」という噂。これが何処から出てきたのだろうか?発見者の名主石井伝右衛門はじめ村人、近在の村々も含めて、さらに後の創作だとしても到底百姓の発想ではありません。御武家の娘さんという想像は出来ても越後の新発田藩、しかも藩主の落し種などというのは百姓の頭の外にあるというものです。僕はこの噂の出どころが赤山役所ではないかと思っています。当時新発田藩では「清涼院様一件」という藩を揺るがす騒動がありました。清涼院という藩主の祖母が寵臣を使って藩政を壟断し、重臣たちとの対立で危機的状況に陥っており、ついには老中松平信明が仲裁に入り清涼院の寵臣相葉七右衛門を罷免して決着しました。これが前年寛政元年(1789年)4月の事です。下は新発田藩溝口家の家紋。

このようなお家騒動が伊奈家の耳に入り、家臣手代の誰かが、あるいはそんなこと(御落胤)があるやも知れぬ。と地元民に漏らしたのではないか?と思います。じつは新発田藩の下屋敷は本所菊川町にあり、関東郡代管理の本所牢屋敷がすぐそばにありました。元々本所深川は伊奈家の庭のようなところなので、そういう極秘情報も耳に入ったかもしれません。また、これが有力なのですが、伊奈家で代々家老や重職を務めた大河内一族は清涼院の実家である大河内松平家とは遠い親戚にあたります。また、大河内宗家の秀綱、久綱はともに初代伊奈忠次の配下でした。(秀綱は久綱、正綱の父。正綱は大河内松平家の初代。久綱の次男信綱は伯父の正綱の養子になり松平伊豆守信綱と名乗り川越藩主となり老中を勤めた。清涼院はこの信綱の系になる。)このように伊奈家重臣の大河内家、また伊奈家と清涼院の実家とは近い関係にあったので、この騒動の事も聞き及んでいたかも知れません。伊奈家自体が同時期に深刻なお家騒動の渦中にいたので、このなりゆきに関心が強かったという想像もできます。実際に新発田藩藩主溝口直候に18,9歳の御落胤あったとは年齢から考えにくく、たまたま伊奈家家中で話題になっていた新発田藩の騒動の事が赤山領下の百姓に伝わりそれがお女郎と結びついたのではないかと考えます。まあ考えすぎだと思いますが。いずれにしても新発田藩の件は当時もその後も村人たちからの発想とは考えにくく、赤山役所の人たちが関っているように思うのです。彼らは実際に町奉行や新発田藩などに問い合わせたのかもしれませんね。

同行者

    お女郎仏はその名の通り、女郎ではないか?との推測からつけられた名前ですが、当時の人々が女郎だと思ったのには若く美しい娘という以外にも理由があります。それは発見時の状況が物語っています。お女郎が石井伝右衛門に発見されたのは寛政2年3月2日の朝(たぶん早朝)。前日前夜は大嵐だったと言います。場所は土手山という林。瀕死の状態でした。「暴風雨の中病気が悪化し重篤となった娘が同行者に捨てられた。」と言うのが大方の見方でした。若い娘、重病、隠されるように遺棄となれば誰でも【女郎が梅毒にかかり、放逐されたあげくに、道中見捨てられ行倒れとなった】と想像することでしょう。
    しかしそれでも確証は得られなかったようで、先の上臈(じょうろう)説、新発田藩御落胤説など諸説入り混じって今に伝わることになってしまいました。川越あたりの置屋(女郎が住む家)から来たなんて言うのもありますがあてずっぽうな感じがします。ところでお女郎には同行者がいたはずですが、この同行者について考えてみたいと思います。
お女郎発見場所(日光御成道分間延絵図より)
    
 同行者が何者であるかは、娘が何者であるかという見方で変わってきます。まず高い身分の子女なら甲斐なきもの(頼りない付添)、足抜け(遊郭を脱走した女郎)ならその情夫。また、これから女郎屋に売られる立場ならば女衒(ぜげん:女を女郎屋に売る商売人)になります。瀕死の娘を見捨て、しかもそれを隠すように林の中に遺棄しているのですから碌なものではないでしょう。ちなみに石井伝右衛門が土手山という林を見回っていたのは理由があります。この林は御林(官林)といって村の所有地ではなく、幕府の所有地だったのです。石神村にはこの土手山の他、東赤堀山、西赤堀山と呼ばれている幕府所有の御林(おはやし)があり、村はその管理を任されていました。御林の管理は大変厳しく、勝手に木を切ったりすると厳しい御咎めを受けましたが、反面、下草や枯枝などの採集が許されていて、これが貴重な生活資源になっていたのです。村役人の伝右衛門が【御林の木々がこの強風で倒れていないだろうか?】と真っ先に点検するのは至極当然の事なのです。
 娘の同行者にとっては嵐が止み、道がわかるくらい明るくなってから周囲の状況を確認し、日光御成道から少し外れた林の中に隠し発見を遅らせようとしたつもりですが、伝右衛門も朝になって嵐が去るとすぐに見回りに来たはずなので、遺棄してまもなく見つかったと思います。この間なかなか際どいタイミングではなかったかと想像します。同行者の悪運は強く、目論見はずれて犯行がばれるところでしたが、娘は生きたまま見つかったものの、意識が混濁して伝右衛門らの質問に答えられず、そのまま意識不明となり死んでしまったので、同行者の悪行も語られることはなかったのです。
土手山近くの林。お女郎が置き去りにされたのはこういうところか?
 
 ところでこの同行者はなぜ娘を殺さなかったのでしょうか?林の中に隠して発見を遅らせるのはいいとして、娘が蘇生してしまったら自分のしたことがばれてしまいます。また、生き返らなくても死ぬまでに娘の口から自分の存在が語られたらお尋ね者になってしまいます。同行者は娘がその後死んだかどうかは知らないはずなので、発覚することを恐れて自分の家には戻らず行方をくらませたと思われます。また、娘がほどなく息絶えることも見越して身元につながる物や金品を奪っていったと考えるのが自然です。
 しかしそれでも娘を殺しておいた方がより身の安全をはかられたのではないでしょうか?もしかしたら殺さなかったではなく、殺せなかったかもしれません。そこで先程のこの同行者が何者であるかに戻りますが、娘が女郎で、情夫の手引きで遊郭を足抜けしたとしたら、娘がこのような体になっても娘のもとから離れることはないでしょう。足抜けが失敗すれば手引きした者は確実に殺されるので、愛する女郎と命がけで脱走して、それがこういう結果になればその男も生きてはいないでしょう。少なくともこういう扱いはしない。だから娘が女郎で、足抜けしてきたというのはないと思います。次に女を売り買いする女衒ですが、元々が悪徳業者なので、商品である女が旅の途中に瀕死になれば、商品としての価値なしとして殺すことにためらいはないと思います。ただ、女衒ならばこうした事態になる前に宿に泊まったり、医者を呼んだりしたはずです。大事な商品なので一応は娘の安全や治療を優先したと思います。
 そうなるとこの同行者が何者なのか益々わからなくなってきます。瀕死の娘をかかえて助けも求めない、林の中に隠しておきながら殺しもしない。この同行者の謎の行動をどう考えるか?ひとつはこの同行者が小心者で恐ろしくて殺せなかった。もうひとつは娘とこの同行者は上下関係にあり、娘が主で同行者が従の場合で、恐れ多くて殺せなかったということが考えられます。いずれにしても娘と同行者の関係は、先の情夫のような同等な立場ではなく、女衒と女郎という下位の立場でもなく、娘の方が上位ということが推測できます。
 春の嵐
     寛政2年3月1日はグレゴリオ暦(西暦)に直すと1790年4月14日。今で言うとソメイヨシノが散って八重桜が開花する頃ですが、江戸時代は世界的に気温が低い小氷期と呼ばれ、なかでも18世紀は宝永噴火を始め浅間山の噴火など火山の噴火により異常気象が続き、それによる凶作が原因で天明の大飢饉などを引き起こしています。つまり4月14日とはいえ今よりも寒かったはずです。寛政2年3月1日の嵐というのは、呼び方こそ温帯低気圧ですが台風並みの強風と豪雨をもたらす爆弾低気圧のことだと思います。急速に発達し、冬から春にかけて日本付近で多発する低気圧で、暴風雪、暴風雨によって甚大な被害をもたらします。
 2012年4月3日に発生した爆弾低気圧は日本海上で急速に発達し中心気圧が964hpと大型台風並みの低気圧になりました。鉄道は運休、航空機は欠航。夕方に首都圏を直撃することから、東京都は企業に早期帰宅を促す通達を出しました。各地で暴風、集中豪雨による被害が続出し、新潟19万世帯、北海道30万世帯など停電が相次ぎ、住宅の屋根が飛ばされ、電柱が倒れ、車が横転するなど、物的被害は甚大になりました。また、死者5名、負傷者350名と人的被害も大型台風並みの被害が出ました。このように春の嵐は台風と変わらぬ規模で発達し被害も同様に発生します。寛永2年3月1日の嵐も石井伝右衛門が倒木の被害を心配するほどの嵐ですから、大きな温帯低気圧(爆弾低気圧)が通過したのだと思います。
    お女郎はそんな嵐の翌朝発見されましたので、その付近で暴風雨に遭難したことになります。暴風雨の中をどう過ごしていたのか?なぜどこかの建物に避難していなかったのか?どうやって死んだのか?そしてまた、お女郎はなぜこの嵐の夜にこの辺りを歩いていたのか?なぜこの日に旅をしなければならなかったのか?特別な事情があったとしか考えられません。
 爆弾低気圧の衛星画像
隠密性と緊急性
 お女郎とその同行者が何者であるかはわかりませんが、その行動は明らかに不審です。まず、忽然と林の中で発見されたということは、それまで現場周辺の村人や街道、宿場の人達の目に触れなかったということで、目立たぬように移動していたのでしょう。前日にこんな娘(もしくは娘のいる一行)を見た。という目撃証言があれば、どこから来たか、どこに向かっていたか、あるいはどんな様子だったのかがわかり、真相解明の大きな手がかりになるのですが、伝説には記録されていません。
    余談ですが僕が感心するのは、お女郎仏の話はあったことがそのまま伝えられていて、落ちや尾ひれがついていないことです。大抵この手の話には後日幽霊が出たとか、夢枕に立って何かを伝えたというようなことを付け加えて話を落着させています。別説には自分は女郎で死の間際に下の病に苦しむ人を助けてやりたいと言ったとか、最初差間の人が発見したが見捨ててしまったとかありますが(それが本当ならその人物の証言なりが残っているはず)、あくまでも別説で本説は新聞記事のように客観的です。何しろ死んだ時間まで伝えているのですから、不正確に伝わるのを嫌っているようにも取れます。これはおとぎ話ではなく事件なのだと。ですからお女郎の目撃証言がないというのも実際になかったから伝わっていないのだと思います。
    それはともかく、お女郎は誰にも見られていない、また、瀕死にもかかわらず同行者(本人も?)助けを求めていないことから隠密行だった。また、暴風雨の中を強行軍していることから何らかの緊急性があったのだと思います。嵐の中を見知らぬ若い娘が歩いているのはかえって目立つというか、見た人の印象に残る光景です。にもかかわらず誰も見ていないのは不自然です。考えられるのはあまりに無謀ですが夜通し歩いてきた。ということです。
    お女郎とその同行者がなぜ嵐の中、人目を避けるように旅をしていたのか?何処かから、あるいは誰かから逃げてきたのか?何か危急の知らせを受けたのか?最悪の天候にもかかわらず旅立たずを得ずしかも目的地に着く前に夜になってしまった。これは当時の常識から言って相当異常なことです。
江戸時代の旅は基本的に夜は歩きません。旅は日の出から日没まで歩くのであって日没前に宿場に泊まります。そのため宿場の端と端には木戸があり日没になると閉じてしまうのです。だから目的地に着く前に日が暮れるなどということはよほど特殊な状況でない限りありえないのです。現代とは違い当時は街道であっても街灯もありません。まして月夜でもない嵐の夜に旅するなど命に係わる無茶なことです。夜通し歩いてきたのかもしれないと言いましたが、わざわざそんなことをしたのではなく旅の途中で日が暮れてしまい、闇と土地不案内で道に迷ってしまった。そして嵐のために身動きが取れなくなったというのが実態ではないかと考えます。
    しかしお女郎達は宿屋に泊るでもなく付近の百姓家に助けを求めることもしていません。お女郎発見の場所は御成道から東に入った村道沿いの林の中であり御成道はもちろん発見場所付近に人家がなかったとは考えられません。あるいは付近の寺社の建物で風雨を凌いでいたかもしれませんが。いずれにしても連れ合いが瀕死となったならば助けを求めてしかるべきです。この隠密性と緊急性は何かの「事件」に巻き込まれていたことを暗示しています。そのことが嵐の夜に遭難するという「事故」につながっていったのではないかと思います。
お女郎の死因
 付添人と旅する女性/東海道五十三次沼津宿
 《お女郎は何らかの理由で一刻も早く今までいた所を去るか、目的地に向かわねばならず、嵐にもかかわらず道案内もしくはボディーガードと一緒に旅に出た。ところが石神付近で夜になり彷徨しているうちに身動きが取れなくなり、そのうちにお女郎が瀕死に陥った。同行者は助けを求めることをせずに、夜が明けるとお女郎を林の中に隠し、その際身元の分かる物と金品を奪って何処かへ逃げて行った。石井伝右衛門は役目柄嵐の後の官林の被害調査をしていると女のすすり泣く声が聞こえ、お女郎を発見した。》
発見時の状況とこれまでの推理でおおよそこのようなことだったのではないか、と推理してみました。しかし依然としてお女郎が何者で、どこから来てどこへ行こうとしたのか?何故嵐の闇の中を旅していたのか?輪郭が見えてきません。真実は永遠に謎ですが、伝説の記述、発見場所や地理的状況、時代状況などからある程度こうだったのではないか?というアプローチをしていきたいと思います。しかしこれまでの推理もそうですが、あくまで推理想像であって学者のように証拠に基づいて真実に迫るというレベルの話ではないので予めご理解いただきたい。むしろエンターテイメントだと思って楽しんで読んでいただければ幸いです。
まず核心部分の謎ではありませんが、お女郎の死因について考えてみたいと思います。お女郎は何が原因で死んだのでしょうか?お女郎という名前からして梅毒でしょうか?結核や心臓病などの持病でしょうか?それとも脳卒中や食中毒、あるいは毒を盛られた、はたまた同行者に首を絞められたとか。お女郎が病死したのか、不慮の事故で死んだのか、殺害されたのかによってお女郎伝説のストーリーが変わってきます。
 
お女郎の死因を考える際に前提として2つの条件があります。
Ⅰ、嵐の中を歩いていたこと。
Ⅱ、同行者は無事だったこと。
つまりお女郎は嵐の中を歩いて旅するほどの体力があった。また、同行者はどうやら無事だったようなので、お女郎の身の上にのみ災厄が降りかかったことがわかります。こう考えるとお女郎が余命幾ばくもない病身だったとは考えられず、道中に異変が起きたように思います。しかし、お女郎持病説を排除するまでには至りません。持病によって衰弱した体で強行軍をしてきたため、お女郎だけが瀕死になった可能性もあるからです。
この前提をふまえ今一度伝説を振り返ってみましょう。
「寛政2年(1790)3月1日に当地方に大きな暴風雨があり、石井家は当時村長を勤めていたので、翌朝官林(土手山)の見回りに行った処、山の中から若い女のすすり泣く声が聞えてくるので行って見ると、十八,九歳くらいの気品の高い女性が病に倒れて苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが病重く言葉も絶え絶え、手掛かりになる所持品もなく、どこの者ともわからず、窮して隣家の杉山さんと相談の結果、庚申塚に仮小屋をつくり、そこに運んで医師を招き治療を受け手厚く看護したが、薬石効なく遂に同月六日午前十時不帰の客となってしまった。」
この記述の中で2つの前提条件の他にポイントとなる箇所は、
1、 気品のある外見だった。見目麗しかったこと。
2、 意識が混濁していたこと。また、意識が戻らなかったこと。
3、 死ぬまでに5日間かかったこと。
4、 仮小屋で治療したこと。
の4点になります。
2つの前提と4つのポイントふまえてお女郎の死因を考えてみます。医者じゃないので、これといった特定まではできませんがさまざま可能性を列挙してみます。
 
 
 
お女郎遭難図拡大版(クリックしてください)
 
 
 
 
お女郎の死因その2
1、の気品の高い、見目麗しい外見だった。ですが、お女郎は気品が高く美しい、身分の高い女性に見えたということなので、顔や皮膚に現れる病気、つまり梅毒や、麻疹、天然痘などの伝染病による症状は見られなかったのでしょう。もしそうなら〝美しいお女郎″という印象は持てなかったはずです。また、伝右衛門等が怪我ではなく「病重く」と見立てていることからアザ、傷、腫れなどの外傷もなく、絞殺に寄る顔の鬱血、首にひもや指の痕も見られなかったのでしょう。ただ、転倒などで頭を強打して脳挫傷になったとして、コブや傷が髪の毛の中にあり見つからなかったということもあるかもしれません。その可能性はあります。
2、の意識が混濁していた。また意識が戻らなかったこと、ですが、伝右衛門がお女郎を発見したとき、すすり泣いていたとあることから意識があったように思いますが、伝右衛門の問いかけに一切答えられていないので意識が混濁していたと思われます。あるいはあえて質問に答えなかった可能性もありますが、その場合その後5日間も死の苦しみに耐えながら沈黙を貫いたことになり、そんなことをするぐらいなら発見される前に自殺しているでしょうから可能性は低いでしょう。死ぬまでに何も会話がなかったようすから、やはり意識が混濁して後に昏睡におちいったと考えるのが自然です。
 意識が混濁してやがて昏睡状態になるということは、先程述べたように脳に直接ダメージを受けたとか、脳に血流(酸素や糖分)が行かなくなることによって起こり、その原因は様々です。毒や極端な低血糖、高体温、低体温などによっても起こります。伝右衛門が発見した時点ではすでにお女郎は重体であり、回復困難な容態だったのです。
3、の死ぬまでに5日間かかった。ですが、前述の通り意識混濁から昏睡状態そして死に至ったので、もがき苦しんだのではなく、ゆっくりと生命維持の機能がなくなっていったのだと思います。意識がない以上食事、水分補給、服薬も出来ないので、そのために衰弱死したとも考えられます。「3月6日午前10時不帰の客となる」とありますが、当時の死の判定は呼吸の停止なので、鼻の下に綿を置くなどして完全に呼吸が止まったことを確認したのでしょう。
4、の仮小屋で治療した。ですが、伝右衛門等は何故わざわざ仮小屋を建てて治療したのでしょうか?それよりも誰かの家、どこかの建物に運んだ方が手っ取り早いですし、普通ならもっと暖かい所や清潔な所に運ぶはずです。しかし、医者が来た後もそのままそこで治療しているので、医者もその処置をもっともだと思ったに違いありません。一番考えられるのが隔離ということです。
 当時は微生物による感染などという知識はありませんから、隔離という処置だったかどうかわかりませんが、風邪が人から人へ移るように伝染病が病人との接触から移るということを経験的にはわかっていたのではないでしょうか?いわゆる邪気や穢れという概念だと思いますが、村境に道祖神が置いてあるのは病の気の侵入を阻止する意味もありますから、そのような判断で仮小屋を建てたと思います。
土手山御林から仮小屋を建てた妙延寺までは約400m。石井家はその近くにあります。伝右衛門と杉山は伝染病を警戒しつつ、治療・看護しやすい距離まで運びました。伝右衛門等が細心の注意を払ってお女郎を治療しようとしたことがうかがえます。

←新井宿・石神の村境にある「姥神様」。咳の病によく効く。とか子供の病気を治してくれると言われている。

 

次号に続く。

続きは最新話をどうぞ。

お女郎縁起考その7

http://araijyuku.blogspot.jp/2017/09/blog-post_83.html